インバウンド
阿川大樹 著 小学館 刊
1,365円 (税込)
今から10年以上前の話ですが、コールセンター業界では「コールセンターを舞台にした小説ができないものか」という声が多数ありました。コールセンターで働くオペレーター(業界では「エージェント」と呼びます)の若い女性を主人公に、「スチュワーデス物語」(古いですね。ご存じの方、おられます?)のようなストーリーを展開するというものです。
なぜそんな声が出てくるかというと、当時はコールセンターのエージェントを確保するのがとても大変だったから。業界に夢を持つ、やる気のある人材を集める方法を模索していたわけです。今もそうかもしれませんが、当時のコールセンターは離職率の非常に高い職場でした。
そんなわけで、この本を最初に見たときは、「やられた!」と思いました。いずれ誰かが書くだろうとは思っていましたが、電気通信の知識とマーケティングの知識、それに派遣労働や情報セキュリティのことにも通じていなければならないコールセンター業界の話は、一般の小説家には難しすぎると高をくくっていたのが本音です。
しかし、以前本欄で紹介した『D列車でいこう』の著者・阿川大樹氏には、それらのハードルは高くはなかったようです。考えてみれば、ビジネス小説、経済小説を書く人にとって、専門知識のハードルはあるのが当たり前。それに10年前とはIT全般の一般常識が格段の進歩を遂げています。かくして、本邦初のコールセンター小説が登場したのでした。
前置きが長くなりましたが、著者の阿川大樹氏は小説家として一本道を歩んできた人ではありません。東京大学在学中に、野田秀樹氏と劇団「夢の遊民社」を設立した人物であると言えば、ただ者ではないとおわかりいただけるでしょう。その後、企業のエンジニアを経て、シリコンバレーのベンチャー設立にも参加します。
その一方で、1999年に「天使の漂流」で第16回サントリーミステリー大賞優秀作品賞を受賞。2005年には『覇権の標的』で第2回ダイヤモンド経済小説大賞優秀賞を受賞、これがデビュー作となります。代表作となった『D列車でいこう』は、過去に本欄で取り上げました。ほかに『幸福な会社』という作品もあります。
本作は、沖縄出身の若い女性が東京の中堅商社に就職したものの、仕事で失敗して退社。夢破れて故郷の沖縄に戻ったところから始まります。この女性、上原理美はコザに家がありますが、夢破れて帰郷したことを家族に知らせたくなく、ひとり職探しに明け暮れる毎日を送っていました。
ハローワークでコールセンターの仕事を勧められた理美でしたが、その帰りに立ち寄った食堂のおばちゃんから「コールセンターだけはやめた方がいいよ」と言われます。「一日中電話で怒られるので、すごく辛いから」なのだそうです。これが現在一般のコールセンターに対する意識でしょう。
おもろまちのコールセンターに入社した理美に、研修係の元アナウンサーはこう言います。「お客様が電話口ですごく怒っていても、それはあなたに対して怒っているのではありません。あなた以外の誰かに対して怒っているのです。私たちの仕事は電話を通じてお客様の怒りの矢面に立つことだと考えられがちですが、それは違います。私たちの仕事は、お客様に対応すべき誰かの代わりになって、お客様に接し、導くことです」
そして、彼女はさらにこう告げます。「みなさんはお客様に対して真心を込めた対応をする必要はありません。真心はいらないんです。大切なのはお客様が真心を込めた対応をしてもらったと感じることであって、本当の真心は必要ありません。だいいち、相手がどんな方かもわからないのに、本当に真心のあるお付き合いが生まれると思いますか?」
物語の冒頭から、コールセンターならではの専門知識が披露されます。施設の中に入る人は、透明なポーチに入る最低限の化粧道具や小銭入れ以外は持ち込み禁止。各所で必要となるセキュリティカードは、自分のポジションに応じて開くゲートが決められている。エージェントには源氏名が使われ、自分の本名は名乗れない。
源氏名については、こういう理由があります。お客様は相手の名前がわかると安心しますが、聞き取りにくい名前や漢字が思い浮かばない名前だと、やりとりに時間がかかってしまいます。それを防ぐために、わかりやすい名前を使うわけです。物語で、上原理美は佐藤広美と名乗ることになります。
ここから先がいよいよ物語の本筋なのですが、小説を紹介するむずかしさで、あえてストーリーにはふれません。その代わり、本書を数時間で読了したあとでは、ミステリアスだったコールセンターの細部までが非常にクリアーに理解できているはずです。それだけは保証します。
ちなみに、タイトルの「インバウンド」とは、コールセンター用語で電話受付のこと。外からかかってくるから「イン」なのです。反対に、こちらから電話をかけるアンケートや勧誘などは「アウトバウンド」と呼びます。エージェントのスキルが異なるため、両者の業務が混在することはあまりありません。
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