オススメ参考書~読んだら即実践してみよう!

「東洋の魔女」論

新 雅史 著 イースト新書

903円 (税込)

1964年の東京オリンピックで日本が獲得した金メダル数は16個。これはアメリカ、ソ連に次いで第3位で、戦後初めて東西ドイツが統一チームを結成したドイツの10個を上回りました。日本チームの金メダル内訳は、ボクシング2個、レスリング5個、柔道3個、体操5個、バレーボール女子1個です。

このうち、最も日本人を熱狂させた金メダルといえば、「東洋の魔女」と呼ばれた女子バレーチームでしょう。10月23日の決勝戦でテレビ中継が記録した視聴率はなんと66.8%。3台のテレビのうち2台がこの試合を映し出していたことになります。しかもその数字はNHKだけのものなので、同時に放送していた民放を合わせると、視聴率は90パーセントを超えていたといわれます。

本書はその熱狂をハイライトに持ってきていますが、女子バレーチーム活躍の背景に、多くの紙幅を割いています。彼女たちが在籍した繊維工場の日本国内における立場や、彼女たちの多くが「主婦」を渇望した理由など、日本の近代史と女子バレーの関係を冷静に考察していきます。

著者の新雅史(あらた・まさふみ)氏は1973年福岡県生まれ。学習院大学ほかで非常勤講師を務める産業社会学・スポーツ社会学の専門家で、『商店街はなぜ滅びるのか--社会・政治・経済史から探る再生の道』(光文社新書)は処女作にしてベストセラーとなりました。

バレーボールは、都市労働者のためにYMCA(キリスト教青年会)が発明したスポーツでした。目的は、心身の健全化と共同性の確保のためでした。近代化のために都市に集められた労働者をいかに健全に休ませるか。そのキーワードは「レクリエーション」と呼ばれ、バレーボールに限らず、多くのスポーツや身体運動、集団行動が導入されました。

現代の日本語では「余暇」と軽くとらえられがちなレクリエーションですが、高度成長期の専門家たちは「余暇をいかに賢明に過ごすかということ」という強い定義を与えています。あるレクリエーション学者はこう言っています。「レクリエーションは単なる余暇でも遊びでも娯楽でもない。苦痛を伴い、精力を消耗する、勤労の反面の生活であって、喜びをともない、精力を再創造する人間の生活行動である」

ヘンリー・フォードはオートメーションとともに日給5ドル、1日8時間労働のシステムを作り上げました。その結果、工場労働者の余暇時間が拡大しましたが、そのことは必ずしも望ましい状況を生みませんでした。飲み過ぎ、賭博、乱暴な運転、乱婚、退屈、無関心といった悪癖です。それを防ぐために考え出されたのがレクリエーションであり、その一端がバレーボールというスポーツでした。

ところで、日本の女子バレーボールチームは、他のスポーツのような「オールジャパンチーム」ではありませんでした。大日本紡績株式会社貝塚工場・女子バレーボールチーム(日紡貝塚)というほぼ単一のアマチュアチームだったのです。

大日本紡績は戦前からバレーボールが盛んで、昭和12年から14年にかけては尼崎工場が全国三連覇をなしとげています。戦後は各工場に散らばっていたバレーボール部を集約して日紡貝塚として再出発、その強さを取り戻しました。そして「鬼の大松」と呼ばれた大松博文監督の猛練習によって、昭和33年に全日本選手権で優勝、それから無類の強さを誇るようになります。

なかでも人々をあっと言わせたのが、昭和36年に日紡貝塚単独でおこなったヨーロッパ遠征で、なみいる強豪のナショナルチームを相手に、22戦全勝という快挙をなしとげました。「東洋の魔女」というニックネームは、このときヨーロッパのマスコミがつけたものです。

大日本紡績に限らず、日本の繊維工場は女子バレーボールチームを盛んに育成しました。その理由は、繊維会社ではその社員の多くを女子が占めること、経営者側に「何かに熱中させておかないと、変な思想にかぶれたりする」という考えがあったことが挙げられます。たとえば当時の鐘紡では、女子従業員の約2割がバレーボールをやっていたといいます。

その結果、日本の女子バレーボールを繊維会社が支えるという図式ができました。当時の全日本総合女子選手権出場チームを見ると、鐘紡6、日紡5、倉紡4、東レ3、東洋紡2と、大手繊維会社だけで20チームとなり、全出場チーム50の4割を占めていました。大手以外の繊維会社も出場していたので、このころの女子バレーは半分が繊維会社のチームだったということになります。

なぜそれほどまでに繊維会社がバレーボールに力を入れたのか。筆者はそのカギを、「女工哀史」に求めています。古くから繊維工業は女子の出稼ぎ労働によって支えられていました。繊維工業は他産業と比べて、女子中卒の占める割合が高く、多くがその後に離職し、行方がわからなくなっていました。昭和38年度の調査によれば、中卒県外就職者のうちで4年後も同じ職場にいた者は全体の4割にも達していなかったそうです。

ではなぜバレーボールなのか。単に肉体を健全化するだけならラジオ体操でもいいはずです。バレーボールが繊維工場に導入されたのは、協同・共同性とスペクタクル性が求められたせいだと筆者は言います。そしてチームが強くなるにつれて、その工場の従業員にプライドが生まれます。「私はあのチームがある工場で働いている」という誇りです。バレーボールチームが強ければ、リクルートが容易になり、離職率も下がるというわけです。

意外に思われるかも知れませんが、バレーボールは東京オリンピックから正式競技に採用されたスポーツです。しかも、日本や韓国で主流だった9人制バレーボールではなく、国際的に広まっていた6人制バレーボールでの採用でした。そのために日本ではバレーボールが2つに分裂します。競技性の強い6人制と、レクリエーション性の強い9人制です。さらに言えば、女子バレーボールの正式採用は、オリンピック史上初の女子チームスポーツを誕生させることとなりました。

1964年のオリンピックが東京に決まると、日本バレーボール協会は大日本紡績の上層部に掛け合い、日紡貝塚を海外遠征に出すよう要請します。そこで破竹の快進撃を遂げ、日紡貝塚は「東洋の魔女」となり、繊維会社のレクリエーションから世界最高の檜舞台に躍り出ることとなります。

日紡貝塚の選手たちは、普通の女子工員と同様に寄宿舎に暮らし、工場での仕事を終えてから猛練習に参加していました。そのためにバレーボール選手でいる間は私生活がなく、選手を引退してから多くがすぐに結婚して主婦になりました。彼女たちのゴールはオリンピックでの金メダルではなく、結婚して主婦になることだったのです。

「ああ、そうだったのか」という思いが満喫できる好著です。


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