かもめのジョナサン完成版
リチャード・バック 著 五木寛之 創訳 新潮社 刊
1,300円 (税別)
読んだことがあるかどうかは別として、「かもめのジョナサン」というタイトルを聞いたことのない人は、ほとんどいないのではないでしょうか。1970年に発表され、数年後に大ベストセラーとなり、全世界で4000万部を突破した話題の本ですから。
しかも、ただ売れた本というだけではなく、当時のヒッピー文化と同調して話題になったため、「伝説の本」という位置づけがなされました。そして読む人によって何通りにも解釈ができる謎めいた内容。きわめて平易な表現の寓話なのに、まるでロールシャッハ・テストのように読者にいろいろな意味を投げかける本でした。ちなみに、この本がロールシャッハ・テストのようであると言ったのは、幻想文学の大家であるレイ・ブラッドベリです。
なぜこの本が今話題になっているかといえば、著者のリチャード・バックが40年ぶりに本書に新たな章を付け加え、「The New Complete Edition(日本語版では「完成版」)として発表されたからです。しかもリチャード・バックによれば、付け加えられた第4章は、じつは最初から原稿として存在していたというのです。はじめから全4章の本として書かれていたのに、著者の意向で4章が省かれて発刊された。それが従来の『かもめのジョナサン』でした。
どうして40年も経ってから著者は気を変えたのか。完成版の序文には、奥さんのサブリナさんが紙くずの山の中から第4章の古い原稿を発掘し、ぜひもう一度読んでみるようにと著者に勧めたと書いてあります。しかし、噂によれば著者は2012年に自分の操縦する小型飛行機で事故を起こし、重傷を負いましたが、その治療で入院していた時に完成版の発刊を思い立ったそうです。九死に一生を得た体験が、インスピレーションを与えたのでしょうか。
本書は、装丁面でも手にする喜びがあります。カバーと帯がついた状態を見ると、普通のソフトカバーの本に見えますが、カバーを外してみると印象が変わります。ペーパーバックの造本ではなく、ハードカバーの様式で作られているからです。
ハードカバーというのは、本文をひとまわり大きな表紙でくるんで作ります。ソフトカバーは表紙を接着してから天地と小口をカットするので、本文と表紙が同サイズです。ハードカバーの表紙は1枚の紙ではなく、紙の芯を別の紙や布、革でくるんで作ります。天地の背の部分には「花ぎれ」と呼ばれる装飾布が使われ、しおりになる「リボン」が付けてあります
本書はそのハードカバーの様式を充たしていながら、あまり重厚すぎないように表紙の厚さを薄くしてあります。普通のハードカバーは厚ボール紙などを芯材にするのですが、本書は中厚手の紙を芯にしていて、カバーがかかっていると「ソフトカバーかな?」と思うような感覚を出しています。このあたりの手の込んだ本作りは、さすが老舗出版社の貫禄です。
中身も凝っていて、40年前の版と同じくラッセル・マンソンの撮影したかもめの写真が大量に使われていますが、まるで写真集のように何ページも写真だけが連続する箇所がいくつも設けてあり、通常の書籍とは一線を画したレイアウトを見せています。
日本語版の訳者は、前の版と同じく人気作家の五木寛之。今回は「創訳」という肩書がついていますが、訳文を作るにあたって、正確な翻訳を五木氏が日本語として徹底的にブラッシュアップしたからです。この手法は前の版でも使われたものですが、今回はそれを明確化するために「創訳」としたとあとがきで説明されています。
本書は分類すると「寓話」という文学作品になります。寓話とは、擬人化された主人公が人間生活に馴染みの深い出来事を見せ、それによって読者に何かを語りかけるものです。イソップ物語が、最もよく知られた寓話です。ただし、イソップ物語はだれでもその物語の言わんとしていることを説明できますが、本書はそう簡単ではありません。主人公であるかもめのジョナサン・リヴィングストンの言葉は明快なのですが、それを読者がどのように自分の人生にあてはめ、役立てればいいかを、著者は明示していないからです。
かもめのジョナサンは、ほかのかもめたちとは違い、餌を取ることよりも「飛ぶこと」に楽しみを感じるちょっと変わったかもめです。両親はみんなと同じように行動するようにと諭しますが、それには耳を貸さず、毎日自己流の飛行訓練に明け暮れます。そして次第にその技量が卓越してきて、どのかもめよりも高く、速く飛ぶことができるようになります。
しかし、そんなジョナサンの行動は他のかもめたちから認められません。ついには「追放」の断が下され、ジョナサンは群れから離れて暮らすことを余儀なくされてしまいます。それでもジョナサンは飛行訓練に精を出し、ついには音よりも速く飛ぶことができるようになります。
そんなジョナサンの元に、2羽のかもめが使者としてやってきます。ジョナサンをふさわしい世界に案内してくれるというのです。新しい世界で、ジョナサンは自分と同じように純粋に飛ぶことが好きな仲間たちを得ます。そして長老格のかもめから、瞬間移動の奥義を学ぶことに成功します。声を出さずに心で会話する術も会得します。
そのころからジョナサンは、かつての群れに戻って自分の獲得した技能を仲間に伝えたいと思うようになります。新しい世界の仲間たちは反対しますが、ジョナサンは自分の気持ちを押し通し、かつての群れに戻ります。
最初は相手にされなかったジョナサンですが、少数のかもめに飛行技術を伝授しているうちに、だんだん多くのかもめがジョナサンの話を聞くようになってきました。そして飛行訓練中の事故で命を落としたかもめをジョナサンが生き返らせたことから、ジョナサンの名声は一挙に高まり、その存在が神格化します。
ジョナサンにとって、みずからの神格化は望ましいことではありませんでした。自分はただ飛ぶのが好きだから、飛行技術を磨いてきただけなのに、その過程で精神的な内面を向上させることの大切さを学んだのに、まるで教祖様のようにあがめ奉られてしまう。ジョナサンは飛行技術を教えた後輩たちに神格化の否定を伝え、みんなの前から姿を消します。
前の版では、ここまでが描かれていました。今回の完成版では、この先の第4章が加わっています。それは、ジョナサンが去った後のかもめ社会がどうなったかを語る章です。神格化され、モニュメントが作られ、伝えたかった内容が次第にねじ曲げられていく「ジョナサン教」。本書では「ジョナサン教」とか、宗教を匂わせる表現は使われていませんが、誰が読んでもそう感じるでしょう。
かもめの群れの大部分は、もはや飛行技術の修練に精を出さず、ただジョナサンが残した言葉だけを記憶し、トレースしようとします。ジョナサンから直に教えを受けた弟子たちはそれに反発しますが、1羽また1羽と弟子たちが死んでいき、ついにジョナサンを知る弟子がいなくなると、ジョナサンの飛行技術は完全に廃れてしまいます。
しかし、かもめの群れのすべてが、飛ぶことに興味のないかもめばかりではありませんでした。時々、群れの中から異端児があらわれ、自己流で飛ぶことを研究します。ある日、並のかもめの飛び方ながら、もっとうまくなりたいと訓練をしていたかもめの前に、1羽の輝くかもめがあらわれます。そして、信じられないような速度で飛び、考えられない曲芸飛行を披露します。「ちょっと練習すれば、きみもすぐできるようになるよ」と語ったそのかもめは、ジョナサンと名乗るのでした。
本書と同じようにいろいろな解釈が可能な寓話として、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの「星の王子さま」があります。非常に興味深いのは、サン=テグジュペリとリチャード・バックがともに飛行機のパイロットであることで、サン=テグジュペリはフランス陸軍の、リチャード・バックはアメリカ空軍のパイロットでした。ともに飛ぶことが大好きで、サン=テグジュペリはみずから志願した北アフリカ戦線で偵察機を操縦中、ドイツ軍の戦闘機に撃墜されて亡くなっています。リチャード・バックは小形の水上飛行機を自家用機にして飛び回っていました。
「著者がパイロットである」と思って読むと、特に第1章の飛行シーンの描写に納得できるでしょう。失速寸前の低速飛行の様子や、極めて高度なマニューバ(航空機の機動のこと)の解説などは、実際に空気を感じているかのような描写です。また、ジョナサンがきれいに着水する時の様子も、いかにも水上飛行機を操り慣れている人ならではの表現です。
自己啓発本の場合は、著者の主張がはっきりしているため、「○○しなければならないのです」と書かれている部分に賛同するか否かで好き嫌いが分かれますが、本書の場合はどう読み解くかが読者の自由に任されているため、心をオープンにして読む必要があります。どう読むのかが決められていないと不安な人は、本書のような作品は苦手かもしれません。
造本面でもコレクションしておいて惜しくない1冊だと思います。
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