「技術的特異点=Technological Singularity」という言葉をご存じでしょうか。シンギュラリティは数学や宇宙物理学でも用いられる用語で、ある基準のもとでその基準が適用できない点のことをいいます。
テクノロジーの世界におけるシンギュラリティは、技術開発の歴史において、ある日を境に人間がその技術を理解できなくなる点を指します。簡単に言うと、AIロボットが人類からテクノロジーの開発を引き継ぎ、人間に理解できない技術を作り出す日のことです。
「そんなのはマンガかSFの中での話で夢物語だ」と思うかもしれませんが、現実にその日は近づいているように見えます。というのは、オセロではすでに人間はコンピュータに勝つことができなくなり、チェスでも最近は負けが込んでいます。そして将棋もここ2年ほどはプロの棋士がコンピュータに負かされています。やがては囲碁の世界もそうなるといわれています。
「人間がプログラムを書かなくては動作しないコンピュータが、人間を上回る存在になるはずがない」というのは、これまでのコンピュータを知る人にとっての常識でした。でも、もしもコンピュータが進化して自分でプログラムを書くようになったら。あるいはプログラムなしで自律的に動作するコンピュータが開発されたら。
人間たちはその恐怖を19世紀からずっと抱いてきました。だからこそ、SF作家のアイザック・アシモフは有名な「ロボット三原則」を示したわけです。これは手塚治虫の「鉄腕アトム」にも流用されました。
第1条
ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない
第2条
ロボットは人間に与えられた命令に服従しなければならない。ただし、与えられた命令が第1条に反する場合は、この限りでない
第3条
ロボットは、前掲第1条および第2条に反するおそれのないかぎり、自己を守らなければならない
しかしこの三原則は現実には作られていません。それどころか軍事大国は競ってロボットの兵器化を進めています。やがては敵味方を識別し、人間を殺傷するロボット兵器が生まれるだろうと予測する軍事研究家もいます。現実に、無人偵察機にミサイルを搭載したものは米軍で当たり前に運用されていて、すでにそれによる死者が出ています。
さて、前置きが長くなりましたが、今回ご紹介するのはそのようなロボットの未来を考察するための格好のハンドブックです。著者の小林雅一氏はKDDI総研のリサーチフェローで、情報セキュリティ大学院大学の客員准教授。『グローバル・メディア産業の未来図』(光文社新書)、『クラウドからAIへ』『ウェブ進化最終形』(ともに朝日新書)などの著書があります。
本書のテーマはAIすなわち人工知能が現在どのくらい進歩していて、近い将来はどうなるかを予測するとともに、来るべき未来において日本の産業界が存在感を示すことができるかどうかを占うものです。どんな雰囲気か、ちょっと章立てを覗いてみましょう。
第1章 最新AIの驚異的実力と人類滅亡の危惧
第2章 脳科学とコンピュータの融合から何が生まれるのか
第3章 日本の全産業がグーグルに支配される日
第4章 人間の存在価値が問われる時代
第1章には「ビッグデータ」「IoT」「ディープラーニング」「ニューラルネット」「自動運転車」といった言葉が出てきます。すでに現在のテクノロジーで扱われているものが大半です。つまり、今の技術が正常に進化していくと、やがては技術的特異点に到達する可能性があるわけです。
アメリカのスタンフォード大学といえば、グーグルの共同創業者をはじめ、数多くの著名な起業家や企業経営者を輩出した名門ですが、ここで今、学生に一番人気のある講義は、アンドリュー・エン准教授の「機械学習」と呼ばれる科目だそうです。本書の冒頭にこの話題が掲げられていますが、それは「機械学習」という学問がAIの一分野であり、これからの社会を大きく変える可能性を秘めているためです。
機械学習とは、「コンピュータが実社会やウェブ上に存在する大量のデータを解析し、そこからビジネスに役立つ何らかのパターンを抽出する」という技術です。そしてこの技術はコンピュータやスマホや自動車やロボットが、各種センサーから取得した大量のデータをもとに、みずから学習して賢くなるためにも使われます。
この技術を巡っては、すでにグーグルとフェイスブック、そして中国の百度が激しい研究開発競争を始めています。巨大IT企業が狙っているのは、将来、すべての機械がAI化されたときの覇権です。そしてそこまでの未来の途中には、ビッグデータ解析やIoTといった現在ホットなテーマがあります。少しでも技術的に有利な立場になれば、すぐにビジネスに活かせるわけです。
機械学習は、すでにネットで使われています。アマゾンのリコメンドやフェースブックのターゲティング広告は、機械学習によってユーザーの行動や好みを分析した結果を反映したものです。そしてその精度は、日を追うごとに正確さを増していきます。
もっとAIらしい技術のサンプルといえば、iPhoneに搭載されている仮想アシスタントのSiriでしょう。日本のユーザーはまだSiriをからかって遊んでいるだけですが、真剣に使い倒していけば、やがては人間のアシスタントよりも有能な電脳秘書になってくれるはずです。
アメリカにはこの機械学習をSaaS(クラウド・コンピューティング)の形で提供する企業が生まれています。たとえばビデオカメラの映像を機械学習で処理することにより、従来は目視に頼っていた製品のチェックを無人化・高速化することが可能になります。ファーストフードの調理場に導入すれば、肉の焼き加減を機械が制御することができるようになるでしょう。
第2章では、「AIは脳を超えることができるか」が論じられます。AIが本物の知能と意識を持つために必要なブレークスルーが列挙され、その可能性が点検されていきます。過去のAI発達史における栄光と挫折の繰り返しと近年の熱狂を、著者は淡々と解説しています。最近のAI研究におけるトピックは、脳科学とAIが相乗的に進化していることです。その結果、人間の脳波を再現するコンピュータ・チップまで登場しました。
第3章では、AIを制した企業が人間社会を支配する可能性を論じています。自動運転車や家事ロボットを導入すれば、それは生活のすべてのデータを収集されることを意味します。巨大企業から見れば、AIロボットは消費者の微細なデータを漏れなく収集するための先兵なのです。
そして最後の第4章では、AIが人間を上回る日について解説しています。AIが「人間から学ぶことはもうない」と判断したらその後はどうなるのか。非常に興味深い展開です。
未来の人間社会とビジネスを見通すなら、まずはこの1冊で基礎知識をつけましょう。