岩波書店というと、「岩波文庫」「岩波新書」「広辞苑」に代表される日本の老舗出版社です。でもその創業に、かの文豪・夏目漱石が関わっていることを知っている人は、意外に少ないかもしれません。
岩波書店の創業者・岩波茂雄は1881年、長野県諏訪市の農家の息子として生まれました。父は村の助役をしていましたが体が弱く、茂雄が15歳のときに病死してしまいます。ふつうならそこで学業への道は断たれてしまうのですが、学問を切望する息子の気持ちを知った母親の応援で、勉学を続けることができました。
しかし茂雄はストレートにエリートコースを歩む人ではありませんでした。日本中学から一高、東大への道を選んだものの、一高生・藤村操の華厳の滝投身自殺事件で衝撃を受け、野尻湖の小島に40日間籠もって人生を考えたりしています。母の懸命の訴えで山を下りましたが、一高は落第・除籍となりました。
東大哲学科に入学した茂雄の財産は、幅広い友人でした。落第していたために複数の学年の友人たちと知己を得ることができたからです。小説家・阿部次郎、後の学習院長・安倍能成、哲学者・和辻哲郎、小説家・小宮豊隆などです。彼らの多くが夏目漱石の門下生を自称していたため、茂雄もいつしか漱石の仕事場を出入りするようになっていいました。
東大入学後に下宿先の娘ヨシと結婚した茂雄が選んだ商売は、古本屋でした。卒業後、神田女学校の教師を4年間ほど勤めましたが、学校当局と衝突してしまい、晴耕雨読の生活を夢見て古本屋を目指したのです。店の名前は妻の発案で「岩波書店」とつけました。
「生きるための糧が得られればいい」と商売には熱心でなかった茂雄ですが、それまで店と客が交渉で決めていた値段を面倒だからと正価販売をスタートさせ、開店1年後には店の運営を軌道に乗せることができました。
そのうちに、茂雄に欲が出てきます。新刊書の刊行を始めたくなったのです。しかし茂雄には資金がありません。借金でスタートして、いきなりつまずいたら破産してしまいます。そこで茂雄が考えたのは、「鉄板企画」を出すことでした。知名度があり、大量の読者が見込める筆者の本を出すことができれば、新刊書の出版社として名をあげることができる。茂雄が考えたのは、「先生」である夏目漱石の本でした。
あろうことか、茂雄は夏目漱石に新刊の出版を承諾してもらっただけでなく、本の製作資金まで出してもらいます。つまり当代随一の売れっ子作家に無名の出版社が自費出版をさせたようなものです。こうして『こころ』が発刊され、岩波書店の歴史が始まりました。
後に茂雄は夏目漱石への感謝の気持ちを込めて「漱石全集」を出版します。また、幅広い交友関係を生かして作られた『哲学叢書』『科学叢書』、そして日本初の文庫本である「岩波文庫」が一世を風靡。ベンチャー出版社だった岩波書店は老舗出版社へと変貌していきました。
さて、前置きが長くなりましたが今回ご紹介する本は「岩波科学ライブラリー」というシリーズ本の最新刊です。岩波科学ライブラリーは1993年に創刊されたシリーズで、「従来の『勉強もの』という科学読み物のイメージを塗り替えるべく、教養としての最先端の科学知識に加えて、真理の発見に至るドラマ、研究者たちの感動をじかに伝える読み物シリーズとして多くの読者に支持されています。2013年には第67回毎日出版文化賞(自然科学部門)を受賞しています。
本書の内容は、タイトルの通り「サバを代理母としてマグロを産ませよう」という試みの歴史と内容を解説したものです。著者は東京海洋大学大学院海洋科学技術研究科教授。専門は魚類発生工学および魚類繁殖生理学で、趣味は船釣りという、生活のすべてが魚ですっぽり覆われているような人です。
「世界のマグロが減っている」「このままではマグロが食べられなくなる」というニュースは誰もが耳にしていると思いますが、実際のところマグロがどれくらいの危機的状況にあるのかを知っている人は少ないでしょう。マグロ、とくに大西洋のクロマグロが絶滅危惧種に指定されていて、太平洋のクロマグロやミナミマグロも乱獲のために個体数を減らしています。
数が減った種を保全するためには、獲らないようにするのが一番いいのですが、日本人に「これから10年間、マグロを食べるな」というのは無理な話です。そこで「養殖」や「増殖」という手法が考えられます。
耳慣れない「増殖」とは、人間の手である程度の大きさまで育てて自然界に放す方法です。サケではすでに行われていて、北海道や東北のサケ漁業はその方法によって支えられています。
しかしクロマグロの親は体重が100kgと大きく、そこまで育つまでに4、5年もの時間がかかります。現在の民間養殖場が研究しているクロマグロの養殖施設は、直径80mという巨大なイケスが必要となります。
そこで著者たちが考えたのが、「サバをマグロの代理母にする」という突拍子もないようなアイデアでした。体重300gのサバからマグロの卵を取り出すことができれば、「増殖」はうんと簡単になります。
ではどうすれば、そんなことができるか。著者たちが考えたのは、「マグロの卵や精子の元となる細胞を発見して取り出し、サバに移植する」という方法でした。以下、話の流れは目次に語ってもらいましょう。
1 サバにマグロを産ませる?
2 どうやってサバにマグロを産ませるのか
3 ヤマメがニジマスを産んだ!
4 精巣から卵? 卵巣から精子?
5 希少魚を救うために
6 20××年、ついに●●がマグロを産んだ!
7 おわりに
この研究目標である「サバがマグロを産んだ」はまだ実現してしませんが、この研究過程ですごい成果が得られています。それは「魚のタイムカプセル」です。絶滅寸前の魚の生殖細胞を凍結し、好きなときによみがえらせるという技術です。
著者たちは「考えてから走る」のではなく、「走りながら考える」という姿勢により、荒唐無稽と思えるアイデアを実現させようとしています。ビジネスでも、そういう姿勢が好結果を生むことは多いようです。