「死ぬまでに学びたい」とはすごいタイトルですが、この題名には著者の思いが詰まっています。そのことが序章「強く生きるために物理学を学ぶ」で説明されていますので、まずそこからご紹介しましょう。
著者は14歳のときに最愛の母親を肝臓ガンで失いました。そのショックは「世界のたがが外れて、自分が奈落の底に落ちていく」ようなものだったといいます。それ以来、著者はこの世から薄皮1枚隔てた「誰もいない世界」に落ち込んでしまいました。
そんな著者を救ってくれたのは、物理学でした。大学で物理学を学び始めた著者は、三陸のローカル線を乗り継ぎながら北海道に行く旅行を計画します。その旅のお供は、スイスの物理学者ヴォルフガング・パウリの書いた『相対性理論』という分厚くむずかしい本でした。
なぜその旅でこの本を読もうと思ったのか。それは、その本はパウリが20歳のときに草稿を書いたものだったからです。「同じ20歳になるまでには理解しておかなくては」というのが、この本を鞄に入れた理由でした。
津軽海峡を渡る青函連絡船の上で3回目を読んでいたときのことです。突然、本に書かれていた数式が輝き出しました。一つ一つの文字が生命体のように感じられ、法則の示した世界が四次元空間になって見えました。そしてアインシュタインの重力場の方程式に行き着いたとき、ついにこれまで著者と世界を隔てていた薄皮がとれて、函館の風景がまったく違う太陽を浴びているように見えたといいます。
「宇宙の構造は、すべてこの方程式から導き出される。最終的に導き出された1行の数式の姿かたちが、ただただ美しい」。そう感じた著者は、感動で打ち震えます。そして同時にこう思いました。「こんな美しい世界があることを知った以上、自分はもう何があっても揺らぐことはない」
この世にはさまざまなできごとがあります。複雑なこと、汚いこと、みじめなこと、ちっぽけなことなど、気持ちが暗くなるようなことがたくさんあります。しかし、自分の周りでで絶えずうごめいているものすべては、その方程式の結果にすぎません。すべてはその方程式の支配の元にあるのです。そのことを知ってしまえば、もう小さなことに心を動かされることはなくなります。
その後、著者は物理学を一生の仕事と定めます。米国ノートルダム大学客員研究員、NTT基礎研究所主幹研究員、経団連21世紀政策研究所研究主幹、同志社大学大学院教授、英国ケンブリッジ大学クレアホール客員フェローなどを経て、現在は京都大学大学院総合生存学館教授を務めています。
「物理学に出会ったおかげで、どんな困難に出会っても、軸をぶらさずに生きてこられた。物理学は、ぼくの人格を強くしてくれた」という著者は、その思いを広く伝えたいと思うようになりました。しかし、「物理学」という学問は敷居が高く、誰もが親しめるものではありません。数式を見た瞬間に逃げ出してしまう人もいます。
そうなってしまう理由を、著者はこう言っています。「これまでの物理学の教科書はすべて『物理学を利用する』ということを暗黙の前提として書かれています。(中略)『道具』や『機械』なのだから単に覚えればいい。使えればよい。そんなふうな書き方がしてあります」
それでは人々が物理学に親しむことはできません。そうではなくて、「20代のニュートンやアインシュタインやハイゼンベルクが、どうやって彼らの方程式を導き出したのか。それは子供の頃の性格や生活とどんなふうにかかわっていたのか。『揺るぎない軸』はどんなふうに彼らの精神を高めていったのか」を知ることで物理学を身近に感じられるようにしたい…。著者はそう思って本書を著しました。
それでは、目次を紹介します。
序章 強く生きるために物理学を学ぶ
第1章 孤独から生まれた科学革命--万有引力の法則
1 ニュートン--「神の御業たる真理」の発見者
2 天才のインスピレーションを追体験する
第2章 哲学から解放された科学--統計力学
1 ホイヘンスからワットへ--産業革命を起こした職人の技能
2 ボルツマン--パラダイムの破壊者に訪れた悲劇
3 世界の乱雑ぶりを弾きだす
第3章 宇宙の設計図を見つけた--エネルギー量子仮説
1 プランク--物理学を変え、物理学を守った
2 波であり粒である光とは何か
第4章 失われなかった子供の空想力--相対性理論
1 アインシュタイン--枠組みを揺さぶるユダヤ的知性
2 中学生の数式で相対性理論を導く
第5章 神はサイコロを振る--量子力学
1 ドゥ・ブロイ--誇り高き孤独と自由な精神
2 シュレーディンガー--遍歴と越境の生涯
3 ハイゼンベルク--科学的名声と原爆製造の汚名
第6章 科学はいかにして創られたか
1 新たな知の創造へのプロセス
2 科学革命家たちの「創発」を検証する
3 創発と回遊--新しいイノベーションの世紀へ
第1章はニュートンが主人公です。ニュートンといえば「リンゴの木」が有名ですが、彼がどんな幼少期を送ったのかを詳しく知っている人は意外に少ないようです。著者はほとんど不幸に見える孤独な幼少期が、偉大な物理学者であるニュートンを形成したと考えています。
ニュートンは1642年、イギリス・ウールズソープの比較的裕福な羊農家に、超未熟児として生まれました。日本では徳川家光が参勤交代の制度を義務づけた年です。彼が生まれる3カ月まえに父親が病死し、3歳のときに母が再婚して家を出て行ってしまいました。おばあさんに育てられた孤独なニュートンは、体の小さないじめられっ子として幼少期を送ります。
著者は「ニュートンは、一生を通じて他人と心を開いて話すことができなかったのではないか」と考えています。そして、孤独で内向的な人間だったからこそ、自然と語り合うようになったのだと見ています。アインシュタインや湯川秀樹、朝永振一郎も似たような性格であったと著者は記しています。
学問好きだったニュートンは、18歳のときに伯父の口利きでケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入学しました。しかしここは貴族の学校です。ニュートンは授業料と食費を免除される代わりに、教授たちの給仕をする身分に甘んじました。食事のときは同級生たちの目の前で給仕をし、教授の残り物を食べるという生活だったそうです。
大学を卒業した年、ロンドンをペストが襲い、ニュートンは故郷に帰って1年半を過ごしました。この時期が「奇跡の1年半」と呼ばれます。なぜなら、この時期に彼の大理論の基礎が考案されたからです。ケンブリッジ大学に戻った彼は、26歳の若さでケンブリッジ大学教授になりました。
ニュートンの業績は、次の3つに代表されるといわれます。
(1)微積分法の発見
(2)万有引力の法則の発見など力学発展への功績
(3)光学に関する数々の発見
万有引力の法則と運動の3法則は、地上の物体の運動のみならず、天体の運動も同じ法則によってすべて説明できるようにしたことが画期的でした。ニュートン力学はそこから250年もの長きにわたり、科学の基礎となります。今でも大学工学部の学科の半分が、ニュートン力学のみで修得できるといいます。
その後のニュートンは、名声と栄光に浴しながら、横暴ともいえる権力の行使者として君臨します。ロバート・フックやゴットフリート・ライプニッツなどライバルを徹底して蹴落とし、50歳を過ぎてからはうつ病になって神経質で付き合いづらい人物になりました。
しかし著者は、そのようなニュートン像は彼の極度に潔癖な性格が災いしたためであると考えています。些細な不正も許すことができず、そういう人物を徹底的に懲らしめようとした。その結果が晩年の悪評であるというわけです。
さらに、ニュートンに関してはあまり語られない業績があります。それは後半生に没頭した錬金術についてです。多くの人々が錬金術を「偉大なる科学者の経歴を汚すオカルト志向」として隠そうとしてきました。しかし著者はそんなニュートンを「晩年の錬金術研究こそ科学する人間の姿、すなわち、まだ誰も知らないことを知りたいと挑む人間の姿が映し出されている」と書いています。
その他の天才たちについても、同様に面白いエピソードが綴られています。物理学をもっと身近に感じるために、ぜひ手に取ってほしい1冊です。