本書はビジネス書ではなく、家族の介護に悩む人たちのヒントになる「介護エッセイ」です。そういう本が果たしてネットショップオーナーのみなさまに役立つか迷いましたが、あえて選んでみました。
というのは、本書が「腹を立ててしまいがちな相手に寄り添い、相手も自分も笑顔にする」という生き方の指南書であるからです。それなら、みなさんのヒントになるかもしれません。そういう目で見てみると、この本はたくさんの示唆に富んでいます。
著者は認知症を患い、それが少しずつ悪化していく父親と生活しています。事実と異なることを言い張り、間違いを認めようとしない父に著者は毎日怒鳴り声を上げていました。しかしある日、そんな毎日を反省し、「自分が正しい」という考えを改めることにしました。
どうしたかというと、幼い頃から自分を育て導いてくれた立派な父が、ときどき「認知星人じーじ」という宇宙人に変身してしまうのだと思うようにしたのです。宇宙人なのだから、変なことを言うのは当たり前。へたに怒らせて地球を滅亡させられては大変です。
そのため、父が「認知星人」に変身するときは、すかさず著者も「地球防衛軍」に変身することにしました。認知星人のことを少しでも理解し、笑顔になってもらうために、宇宙人に寄り添うことにしたのです。
すると、毎日が変わってきました。父親の不思議な言動や奇行にも意味があることがわかってきて、めちゃくちゃなことを言われても、腹が立たなくなってきました。それどころか、父が喜ぶ対応を見つけることができるようになり、父が笑顔を見せる回数が増えてきました。
著者はうれしくなり、毎日の父親とのやり取りをFacebookに投稿し始めました。するとそれが関係者の目に留まり、埼玉新聞の連載コラムになりました。これを読んだ出版社の人が「これはおもしろい」と出版を申し入れ、本書が誕生したわけです。
今の日本は放っておくと殺伐とした社会になってしまいそうな空気をはらんでいます。個人にも社会にも余裕がなくなっているためです。人は余裕を失うと生の感情を相手にぶつけるようになり、いさかいが絶えなくなります。それは誰も幸せにしません。
だからといって「政府が悪い」「マスコミが悪い」「客が悪い」と誰かを悪者にしても何も解決しないことは明らかです。しかたがないので私たちは不満を内に溜めたまま毎日の生活を送っていきます。すると世の中から笑顔がなくなります。
日本は長く続く沈滞ムードの中にあります。景気の目に見える上昇はなく、国際的地位はずるずると右肩下がり。社会は少子高齢化と人口減少、地方の過疎化でコミュニティが傷んでいます。そこに追い打ちをかけるようなコロナと台風の襲来。なるほど、人々が笑顔になれる要素はなかなか見つかりません。
そんな現状を少しでも改善するには、まず自分にできることをやってみることではないでしょうか。お金をかけず、今すぐにできること。それは自分の考え方を少しでも変えてみることです。
著者の黒川玲子さんは大手広告代理店を経て介護事業会社に勤務し、現在は介護・福祉系の編集プロダクションを経営するかたわら、介護スタッフの接遇マナーインストラクターもやっている、いわば「介護業界関係者」です。
業界人ですから、もちろん認知症のことはよく知っています。すでに2011年の東日本大震災をきっかけに母親が認知症となり、ホームに入居。それに続いての父親の発病でした。
しかし「知っている」ことと「うまく対処できる」ことの間には雲泥の差があります。家の中のことはすべて母親に頼り切りだった父が、生活環境の変化から認知症を発症してしまうと、毎日衝突を繰り返すようになってしまいました。
それまでに、介護施設のスタッフの人から「利用者様の介護はできるけど、自分の親になったら無理よ。感情が先にきちゃってさあ、イライラしてつい怒っちゃうのよ」と言われても、「親にイラついてどうすんだよ」と上から目線で思っていた著者でしたが、完全に親の介護をなめていたことを思い知りました。
父親の異常は、毎日コンビニで食べもしない昆布のおにぎりを買ってくることから始まりました。著者は父親に対して怒りました。「食べないなら買ってこないでよ。なんで私が毎日、食べたくもないおにぎり食べなきゃなんないの?」
そして何度も転んで危ないから自転車に乗るなと言っても、父は自転車に乗るのをやめません。ここでも著者は大声を上げます。「出会い頭に人にぶつかって、怪我させたらどうするのよ。何度も転んで怪我してるんだからいい加減にやめてよ!」
父親は一人で階段を降りることができません。だから二階に上がるなと言っているのですが、それでも二階に上がるのをやめません。「一人で降りられないなら、二階に行かないでよ! 二階から呼ばれるたびに、降ろすの手伝う私の身にもなってよ!」
しかし、「地球防衛軍」になって「認知星人」と向き合うことができるようになると、異常と思えた父の行動が理解できました。昆布のおにぎりは、ただ父がおにぎりを食べたかったからでした。自分が買ったことを忘れていただけだったのです。
それを知った著者は、父親を責めるのではなく、「一人でコンビニに買い物に行けるなんて、素晴らしいじゃないか!」と思うようにしました。
自転車に乗るのをやめなかったのは、歩くより楽に長距離を移動できるからでしたが、なにより91歳になっても自転車に乗れる身体能力を持っていることを評価するようにしました。
禁止されても二階に上がってしまうのは、認知症になる前の父の部屋が二階にあったからです。今は一階が自分の部屋だということを忘れているので、つい二階に上がってしまっていたのでした。
「私は正しい。相手が間違っている」という気持ちが先に立つと、相手を責める心がイライラを招きます。それが高圧的な口調になるので、「自分は病気だ」とわかっていない父親と衝突します。
問題は、ちょっと前までふつうにテレビを見ていた父親が、突然スイッチが入ったように攻撃をしてくることでした。著者はその態度の急変になにかきっかけがあるのではないかと考え、父親をよく観察しました。
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そしてある日、すごい光景を目にしたのだ。
椅子に座りロダンの考える人のようなポーズをとり微動だにしない父。額にあてた握りこぶしからは、なにやら天に向かって光線のようなものが出ているではないか(そんなふうに見えただけだが)。……ピピピピ、ピピピピ。
数分後、やおら立ち上がった父は、わけのわからん言動を連発しだしたのだ。
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そして著者は気づきました。父がわけのわからないことをする前に、必ずこのポーズをとっていることを。そこで著者はこう確信します。
「父は、認知星と交信して認知星人に変身するのだ」
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相手は認知星人である。認知星人には認知星人なりの考えがある。地球人の常識は認知星人にとっては非常識なのかもしれない。地球人にとってわけのわからない言動だが、認知星人にとっては普通のことなのだ。そう思った瞬間。
……ピカッとひらめいた!
地球人のままではわが家は暗黒のままだ……。認知星人の気持ちを理解するには認知星人に変身するのがいいかもしれないが、私はまだ認知星人にはなりたくない。そこで、じーじを笑顔にする「地球防衛軍」に変身しようと決めたのであった。
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こうして、黒川家は明るさを取り戻しました。とはいうものの、認知星人の攻撃は日々進化していくので、油断できません。ときどき感情に負けてイラッとしてしまうと、認知星人はその気配を瞬時に察知し、100倍返しの攻撃を仕掛けてきます。
そうなるとストレスが溜まりますが、著者はなんとかしてストレスを溜めないようにしています。業界人なので、ストレスが要介護者の虐待につながることをよく知っているからです。
著者のストレスのはけ口は2つ。ひとつは同居している娘さんにグチを言い、聞いてもらうこと。でもたまに「それはママも悪いよ」とたしなめられることもあり、そうなると奈落の底に突き落とされるので逆効果なのですが。
もうひとつのストレスのはけ口は、ビール。父がデイサービスに出かけている間に、好物の焼き鳥とスーパードライを買ってきて、「♪く~そじじい、くそじじい(桃太郎のメロディーで)」と大声で歌いながら家飲みをします。
でも、「地球防衛軍」の活動を続けているうちに、父が「認知星人」に変身するのにはちゃんとした理由があることがわかってきました。
毎晩深夜に背広に着替え、「これから皇室会議に出席する」と言い始めたことがありましたが、それはテレビのニュースを見て、まだ子どもの(と思い込んでいた)天皇陛下の行く末を心配したからでした。天皇陛下が著者と同学年であることを知ると、その行動はぴたっと止まりました。
「家を売ったから建設会社の営業マンを呼べ」と言ったり、「新築の分譲住宅を買った」と言ったことがありましたが、それは自分が天国に行った後、築40年の家に住み続けるであろう娘(著者)と孫娘のことを心配しての言動のようでした。
介護をする人は、毎日が緊張の連続です。その原因のひとつに、何か事故が起きたとき、周囲から「あなたが付いていたのに、どうしてこんなことになったの?」と心ない言葉を浴びせかけられるということがあります。
著者は家族会議(著者の弟と娘の3人)で、「何があっても著者のせいにはしない」という決議をしてもらいました。それで心が軽くなり、父に対して「ダメ」「危ない」を連発することがなくなりました。その結果、父は追い詰められたときの捨て台詞である「俺に死ねというのか」を口にしなくなりました。
ここまでの紹介で、本書は道徳的な心構えの本であると思われたかもしれませんが、じつは本書には「認知星人じーじ」と「地球防衛軍」の抱腹絶倒のエピソードが満載です。いつかは誰もが経験する高齢者介護について、笑いながら学べる良書だと思います。
著者は「おわりに」でこのようなことを言っています。
認知症という言葉が2004年にできるまでは、認知症は「痴呆」と呼ばれ、発症した高齢者は座敷牢のように家の一角に閉じ込められていることが多かったそうです。
介護保険法が施行されてから20年、認知症に対する理解が深まっているかといえば、まだまだです。しかし2025年には認知症高齢者が700万人に達すると厚生労働省は発表しています。高齢者の5人に1人が「認知星人」になるということです。
そのような社会を生きやすくし、「認知星人」に笑顔になってもらうためには、世の中の人一人ひとりが「地球防衛軍」になる必要があります。本書はそのための最初のステップです。
本書は認知症の介護の話でしたが、「認知星人」をモンスタークレイマーやなかなか意思の疎通ができないスタッフ、仕事の大変さを理解してくれない家族などに置き換えてみると、学ぶところは大きいと思います。