表紙側の帯に、「私、このたび、入籍させていただくことになりました」という敬語の誤用例が大きく載っています。「ある女性タレントのブログより」とありますから、著者が実際に目にしたものなのでしょう。
なぜこの用法が間違いなのかは、第二章の51ページに詳しく載っています。引用してみましょう。
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「皆さんにご報告があります。私、このたび、入籍させていただくことになりました。驚かせてしまってごめんなさい」
(中略)
ここで問題なのはやはり「させていただく」である。自分の行為を控え目に述べる際には「させていただく」を使う、と思っているのだろうが、突然の発表を読者に詫びているところを見ると、ファンの意思とは関係のないできごとのようだ。この件に関して、ファンからの許可も依頼も恩恵も受けていない。その場合、「させていただく」は使えない。「結婚することになりました」「入籍することとなりました」でよい。
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なぜここで「させていただく」が使えないのか、「させていただく」が使えるのはどんな場合かは、第二章全体でくわしく解説されています。この章がまるまる「させていただく」にあてられているからです。
現代人は謙譲表現の代表として「させていただく」をよく使いますが、その多くは誤用です。「する」の謙譲表現は「いたす」であって、「させていただく」ではないからです。そして、著者は「させていただく」を「取扱注意と大きく書かれた機械に似ている」といいます。実は使いこなすことが相当にむずかしい表現だからです。
「させていただく」には大きく分けて2つの用法がありますが、その2つはまったく異なるものです。むしろ反対の使い方といえるほどです。
1つめの用法は、「厚かましくて申し訳ないと思いつつ、私はこれをする。なぜなら、ありがたいことにあなたが許可してくれたから」という気持ちを背景として用いるものです。この場合、まだ許可がおりていないときには「させていただきたいのですが」「させていただけますか」という形で使います。
【例】
上司「ずいぶん顔色が悪いけど、どうかしたの」
部下「今朝からひどい頭痛で。薬を飲んだんですけど、ひどくなるばかりなんです」
上司「今日はもう帰ったほうがいいんじゃないの。家に帰って寝るとか、病院に行くとか」
部下「そうですか。そうさせていただけると助かります。ありがとうございます」
(翌日)
部下「昨日早退させていただいたおかげで、ゆっくり休むことができました。もうすっかりよくなりました。お心づかい、どうもありがとうございました」
これが正統派の「させていただく」の使い方です。この場合、部下から上司に許可を求める際にも「させていただく」を使うことができます。
【例】
部下「頭痛がひどいので、申し訳ありませんが、今日は早退させていただけますでしょうか」
以上は「許可」にまつわる「させていただく」ですが、「依頼」を受けた場合にも「させていただく」を使うことができます。自分がするのが当然だろうと思っているが、遠慮していたら、誰かが背中を押してくれたようなケースです。
【例】
パーティーの席上で参加者がスピーチをしている。自分も立場上するべきだと思っているが、前に出て行く勇気がない。そこに主催者が来て「まだスピーチなさっていませんね。次にお願いします」と言われた。
自分「では、私もひと言ご挨拶させていただきます」
2つめの用法は、1つめとは真逆です。相手に失礼であることを十分に承知しながら、あえて用いる意図的な慇懃無礼(いんぎんぶれい)で、自己主張の手段として用います。
【例】
部下「会社をやめさせていただきます」
本音は「バカヤロー、こんな会社やめてやる!」ですが、謙譲語である「させていただく」を相手の許可や依頼がないところで用いることで、相手を不愉快にさせることを狙っています。次の例も、同様です。
【例】
出席者「今まで黙って拝聴しておりましたが、ご意見に賛同いたしかねますので、私もひと言言わせていただきます」
取引先「その件につきましては、これまでに何度も申し上げました通り、お断りさせていただきます」
言葉は丁寧でも言っていることはきつく、相当に強い自己主張になっていることがわかるはずです。失礼な相手に対して、必要以上の敬語を使うことによって「失礼のお返し」をしようという形です。
しかし、現代人は上記2つの用法のどちらにも当てはまらない「させていただく」を連発しています。次の例も誤用です。
【例】
「少額ですが、送金させていただきました」
偉そうに聞こえないように「させていただきました」を使ったのでしょうが、間違いです。「送金いたしました」とするべきです。
また、誤用の結果、相手に誤解されてしまう場合もあります。
【例】
「この春、A大学を卒業させていただきました」
本来の「させていただく」の用法から読み解くと、「単位が足りなくて留年必至だったところ、教授に泣きついてお情けで単位をもらうことができ、それでやっと卒業した」と推測されても文句は言えません。
また、丁寧な表現にしたつもりが、「させていただく」の2番目の用法「慇懃無礼」ととられてしまうこともあります。
【例】
「〆切は来月末とさせていただきます」
忙しい著者だったら、編集部がケンカを売っていると受け取るかもしれません。
著者は「させていただく」を使いそうになったら、なるべく他の用法に言い換える訓練をすることを勧めています。誤用を避けることと、日本語表現の訓練のためです。
著者が「させていただく」を「取扱注意と大きく書かれた機械に似ている」と言っていることは前に書きましたが、その後でこう付け加えています。
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機械と異なるのは、使い方を学習すればするほど、実際には使用しにくくなるという点だ。ある目的のためには有効に働くが、そのチャンスはあまり多くないから実際の出番は少ない、という複雑な機械が「させていただく」なのだ。
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著者は1952年愛知県生まれ、東京育ちの日本語・フランス語教師です。文教大学、東京富士大学、国立看護大学校で教鞭をとり、『かなり気がかりな日本語』(集英社新書)、『バカ丁寧化する日本語』(光文社新書)、『日本語力の基本』(日本実業出版社)などの著書があります。
著者は「あとがき」で、敬語についてこう語っています。
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外国人学習者と異なり、日本語母語話者は日本語に不自由しているわけではない。日本語に関する知識も経験もある。それでも、勘違いや不注意から、おかしな日本語を使ってしまう。
その代表格が敬語だ。時代、環境、習慣の変化により、生活の中で自然に敬語を身につける機会が減った。しかし、社会に出れば敬語の使用が要求される。「丁寧に言っておけばよいだろう」「なんか違うような気もするけど、皆が使っているから、まあいいか」ということになる。その結果が、現在の過剰敬語や誤用の氾濫である。
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本書には「させていただく」のほかに、「よろしくお願いします」「お疲れ様です」「お世話になっております」「していただく」「してもらう」「になります」「しておられる」「してもらってもいいですか」「していただければと思います」など、現代日本に蔓延する怪しい言葉づかいがたくさん登場します。
それでは、本書の目次を紹介します。各章のタイトルを見るだけで、おおよそ何が書かれているかがわかるでしょう。
・序章
「よろしくお願いします」で明け、「よろしくお願いします」で暮れる
――言葉は考えて使いたい
・第一章
いくら何でも、いただきすぎ
――現代日本人に最も好まれている敬語
・第二章
取り扱い注意の「させていただく」
――実は難しい謙譲の表現
・第三章
「れ足す」「さ入れ」「を入れ」
――余計な一文字を挿入する
・第四章
ゴトリ、シテトリ、オトリ、テトリ
――拡散する「簡易敬語」
・第五章
敬意の向かう先
――敬語の使い分けができないのは、敬語を知らないのと同じである
・第六章
「部長はイカレテル」「先生もヤラレタ」は尊敬語か
――ナル尊とレル尊を考える
・第七章
丁寧な口調で失礼なことを言う人々
――知らないうちに相手を低めていないか
・第八章
「~レバと思います」「この千円は大丈夫です」
――“コピペ語”の怪
・第九章
これは妻がプレゼントしてくださったネクタイです
――“その日”は意外と近いかもしれない
・第十章
端的に!簡潔に!
――「一つの正解」を求める世の中
・終章
他人事のコミュニケーション
――自分自身に対する観察力はあるか
「敬語」は文法書を丸暗記しても使えません。文法や正しい用法といった知識を身につけると同時に、TPOに合わせた正しい使い方を選んで使っていく経験が必要です。社会全体で正しい敬語が怪しくなっている現代だからこそ、正しい敬語を使って良い意味で目立つ存在になりたいものです。それがビジネスや人生を豊かにします。