今から90年前の11月に91歳で亡くなった渋沢栄一が、いま大人気です。新一万円札の肖像に決まったこともニュースでしたが、NHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公になったことで改めて偉大な実業家としての存在にスポットライトが当たったためでしょう。
江戸時代の封建社会から短期間で資本主義社会へと大変革を成し遂げた明治の起業家たちは、武将や探検家と同様のパイオニアと言えます。しかも、私たちがいま営んでいるのと同じビジネスの世界で活躍したのですから、彼らの行動は私たちの活動に直接のヒントになるはずです。
本書は、そんな明治の起業家たち10人を「胆力」「危機管理力」「先見力」の3章に分類して紹介したビジネス・ドキュメンタリーです。明治と令和では社会環境がまったく異なりますが、彼らから学べるものが必ずあるはずです。
著者の加来耕三は、1958年大阪生まれの歴史家・作家です。奈良大学文学部史学科を卒業後、同大学文学部研究員を経て、現在は大学・企業の講師を勤めながら著作活動に勤しんでいます。「歴史研究」編集委員、内外情勢調査会講師、中小企業大学校講師、政経懇話会講師もつとめています。主な著書は『幕末維新の師弟学』(淡交社)、『立花宗茂』(中公新書ラクレ)、『「気」の使い方』(さくら舎)、『歴史の失敗学』(日経BP)などです。
著者は11ページにわたる「はじめに」で、なぜ本書を著したのかを説明しています。
***
読者の中には、「DX」の現代、明治・大正・昭和の経営者に、何をいまさら、と学ぶ意義を見出せない方がいるかもしれない。
が、歴史はくり返す――なぜならば、人が生きていくうえでの原理・原則は変わらないからだ。「DX」はデジタルとリアルの融合でしかない。生身の人間が根本であるかぎり、失敗の本質において、過去も現在も未来も代わることはない。
(中略)
おそらくこれから先、大きく伸びるビジネスのヒントも、ここにあるに違いない。
ぜひ、産業立国日本を築いたほどの人々でも、最善をつくしながらやってしまった失敗、遭遇してしまった唐突な苦難に、読者ご自身を想定しつつ、その危機突破力、脱出方法、逆転の方策を学んでいただけたならば、これにすぎたる喜びはない。
***}
では、第一章から順に見ていきましょう。
第一章「胆力」には、渋沢栄一、安田善次郎、浅野総一郎、古河市兵衛の4人が登場します。渋沢栄一に付されたキャッチは「否定的思考を肯定的思考に変えて"日本資本主義の父"となった」です。
著者は若き日々の失敗に対する反省が、比類なき経済界のリーダーを作り上げたと見ています。若き日々の失敗とは、尊皇攘夷の思想に染まり、テロリストとしての人生を歩もうとしたことです。
しかし彼は転身し、一橋家に仕官。パリ万博列席とフランス留学のためヨーロッパに出張します。これが人生の方向を決めるきっかけとなりました。
生まれて初めての蒸気船や汽車を経験し、スエズ運河の大規模工事を見学しましたが、そこで渋沢は「国家を超越した世界人類全体の幸せ」という角度からスエズ運河を理解します。そしてパリで銀行家が軍人と対等に会話している光景を目にして、ショックを受けました。
士農工商の身分格差がはっきりしている日本では、銀行家は商人であり、軍人は武士です。つまり階級の一番上の人と一番下の人が、フランスでは対等であったということです。
ここに至って、渋沢は真の尊皇攘夷を行うためには、独立国として富国強兵を火急に実施せねばならず、そのためにはまず殖産興業が必要であることを痛感しました。これが、渋沢のその後の人生となったわけです。
2番目に登場する安田善次郎には、次のようなキャッチがついています。
「確率の高い経営を続け財閥を築いた」
安田財閥の創始者であり、今日のみずほ銀行につながる銀行王の「失敗に向き合う姿」が描かれています。
越中富山藩の下級武士の子として生まれた安田善次郎は、藩に金を貸していた豪商の手代を勘定奉行以下の地位のある武士がへりくだって応対する様子を見て、「武士などやめて金持ちになりたい」と思うようになります。
そして二度の家出に失敗した後、両親を説得して江戸に出て両替商で働きますが、なかなか出世せず、「これではいつまでたっても金持ちになれない」と思って独立の道を選びます。
そして努力の末に小さな両替商として働きますが、やがて幕府の信用を得て、公認の両替商として活躍するようになりました。明治維新の時には、二千両近い財産を有していたそうです。
そして新政府の流れに乗って、次々と銀行を開設する一方で日本銀行の局長、理事、監事を歴任し、銀行王としての地位を盤石のものにしました。
3番目の「セメント王」浅野総一郎には、「コペルニクス的な発想の転換ができた日本のセメント王」というキャッチがついています。
一代で浅野財閥を築いた浅野の前半生は、やることなすこと失敗続きで、総一郎ならぬ「損一郎」というあだ名がついていたほどでした。
越中国氷見郡の医師の長男に生まれた総一郎は、本来ならば医師を継ぐはずでしたが、大流行したコレラで人々がばたばたと死んでいく様子を見て、医師ではなく商人になることを志します。
しかし織物工場、醤油の醸造所、農産加工品の商社を次々に手掛けますが、いずれも失敗。一発逆転を狙って米を買い付けますが、不良品をつかまされて負債をさらに大きくしてしまいます。
そしてとうとう借金を踏み倒して夜逃げ。同郷の知人が営む横浜の酒屋に住み込みの店員として雇われました。そこでタダ同然の竹の皮が手をかけて加工することで商品になることを知り、竹皮商として頭角を現します。
やがて薪炭商、石炭商を経て、コークス、コールタールを大規模に商うようになった総一郎は、渋沢栄一の知己を得てセメント工場を買収、セメント王への道を歩んでいきました。
ここで大事なのは、竹皮以降の総一郎の扱い商品が、いずれもタダ同然で仕入れたものだったことです。値がつかず無価値と思われていたものを大量に仕入れ、時期を待って寝かしておく。そして需要が出たときに売りさばいて大儲けというパターンで、総一郎は財閥へと駆け上がったわけです。
第二章の「危機管理力」には、大倉財閥を築いた大倉喜八郎が登場します。喜八郎が92年の生涯で創業した企業のうち、現在も存続しているのは大成建設、サッポロビール、帝国ホテル、帝国劇場、日清オイリオグループ、あいおいニッセイ同和損害保険などがあります。
越後新発田の名主の子として生まれた喜八郎は、18歳で江戸に出て商人を目指します。そして鰹節屋の店員として3年間働いた後、大倉屋という小さな乾物屋を開店して独立します。
新聞をよく読んでいた喜八郎は、幕末維新の世相を敏感に読み取り、乾物屋から鉄砲商へと商売替えをします。しかし小商いの乾物屋と違い、鉄砲は高額商品ですから仕入れには多額の現金が必要です。しかも、横浜で仕入れて江戸で売るルートには、強盗が出没していました。
喜八郎は文字通り命がけで仕入れ代金を工面し、危険な道中を毎日往復しました。時には現金を駕籠の天井や座布団の下に隠し、鉄砲を仕入れての帰路は引き金に指をかけていつでも発砲できるようにして危険な道中を駆け抜けました。
こうして短期間で財をなした喜八郎は、明治5年に1年半ものアメリカ・ヨーロッパの旅に出ます。明治維新の動乱期に鉄砲を売って発展を遂げた後のアイデアが思いつかなかったからでした。
帰国後、貿易商社を始めた喜八郎は、日本で最初の海外支店を設置します。そして日韓最初の貿易、日本最初の街灯など、最先端を走り続けました。明治23年に東京・横浜間の電話が引かれた時、最初の加入者は大倉組商会でした。
第3章の「先見力」で最初に登場するのは、三菱の創始者・岩崎弥太郎です。こんなキャッチが付いています。「未来構造を仕入れて具体化した地下浪人の子」。
「地下浪人(じげろうにん)」というのは、土佐藩山内家に存在した身分制度で、武士とその他の階層の間に位置しながら、武士でも農民でも職人でも商人でもないという者でした。
地下浪人の上には鄕士という身分がありました。下駄などを履くことを許されず、はだしで歩くことを強いられた鄕士よりもさらに下の、武士が持つ特権が何一つ許されない身分でした。
岩崎弥太郎は、そんな地下浪人の長男として生まれました。この出自こそが、大三菱を作り上げる原動力になったと著者は見ています。
弥太郎の父は「甲斐性なし」「穀潰し」と呼ばれた村の嫌われ者でした。しかし幸いなことに母の実家が町医者だったため、弥太郎は母方の親戚から学問の手ほどきを受けることができました。
そして弥太郎は儒学者の従僕として江戸に出ます。黒船来航の翌年のことでした。しかし父が酔って事件を起こし、投獄されたために江戸留学を10か月で切り上げて故郷に帰ります。ところが藩を批判したため、父の代わりに投獄されてしまいます。
牢屋の中で知り合った木こりから算術と商売を教わった弥太郎は、「世の中は金で動いている」ということを悟ります。そして寺子屋の師匠から藩士に上りつめ、坂本龍馬と知り合ったことで海運業への道が開けます。そこから三菱が誕生し、日本を代表する大財閥へと発展していくわけです。
ここでは一部しか紹介できませんでしたが、10人の読み応えのあるドラマの中に、ビジネスの、人生のヒントが詰まっている、じつに勉強になる本です。