「日本史」と聞くと、顔をしかめる人がいます。中学、高校の授業で苦手だった思い出がよみがえるからでしょう。年号や人物名をとにかく暗記させられ、「なくようぐいす」とか「いいくにつくろう」といった語呂合わせがいつまでも記憶に残ります。
でも、著者に言わせるとそれは「日本史との不幸な出会い」なのだそうです。日本史とは確定した過去の事実をひたすら記憶する退屈な学問ではなく、まだわかっていないことだらけの未知を相手にする学問なのだそうです。
たとえば、豊臣秀吉が死んだのは1598年だとされています。これは多くの史料で確認できるため、動かしようのない事実と考えられます。しかし、秀吉が自分の死後、どんな政治体制を考えていたのかについては、ほとんどわかっていません。
もしも豊臣家の支配を永続させることが最優先であったのだとすれば、朝鮮出兵などせずに全力で徳川家康を潰していたはずです。でも、そうしませんでした。なぜなのでしょうか。
そのように考えていくと、日本史がおもしろくなってきます。記録を丸暗記するのではなく、歴史サスペンスを推理するからです。本書はそのヒントになる考え方やトピックがたくさん書かれた歴史入門書です。
よく、「日本史など勉強して何の役に立つのか?」と聞く人がいます。多くは目の前の勉強から逃れる方便として使われるのですが、日本史が歴史サスペンスを考える学問であるとするなら、答えが見えてきます。歴史の流れを考えることが社会の変化をとらえることにつながり、それは現在や未来にも応用できるからです。
著者の本郷和人氏は1960年生まれの歴史学者。東京大学史料編纂所の教授で、日本中世史が専攻です。著書は『日本史のツボ』『北条氏の時代』『承久の乱』『中世朝廷訴訟の研究』『新・中世王権論』『日本史の論点』『世襲の日本史』など多数あります。
それでは、本書の目次を紹介しましょう。ひとつでも「読みたい!」という項目があったら、ぜひ購入してください。
・第一章 日本史を疑ってみよう
日本史は何の役に立つのか
歴史用語を疑え 頼朝は自分が「幕府を開いた」と思っていなかった?
「史実」とは何か 史料の使い方、疑い方
日本史は何で出来ているか 古文書、古記録と歴史書の違い
真の差出人は誰だ 古文書の読み方の基本
こんなところにも「歴史会社」が 時代の名前は意外に大事
時代の変わり目をどこで見るか
日本史の流れを押さえる四つの視点
「この国のかたち」は時代によって変わる
外圧にも「レベル」がある
日本の歴史は「プレイヤー」拡大の歴史
世襲のメリット、実力のメリット
・第二章 古代
史料が少ない古代史を読み解くには
ヤマト王権のフランチャイズ戦略
「日本」をつくった警戒レベルMAXの外圧
壬申の乱は「日本」を二倍に広げた
律令体制を税金問題として考えてみよう
・第三章 平安時代
朝廷は全国を支配できていたか 「面」の支配と「点」の支配
遣唐使はなぜ廃止されたか 吉備真備と菅原道真の運命
貴族の地方放置が武士を育てた 平将門の乱を再評価する
実はもろかった摂関政治
「武者の世」が到来した理由
・第四章 鎌倉時代
関東武士はなぜ頼朝を担いだのか
「幕府」をどう捉えるかで成立年が変わる
どうして源氏将軍が絶えたのに鎌倉幕府は続いたのか
鎌倉後期の天皇は名君ぞろい 敗戦が生んだ「徳」への競争
御成敗式目はなぜ必要になったのか
元寇は本当は避けられた
「銭」に負けた得宗専制
名字に「の」が入らなくなった理由 家族制度・土地・相続
・第五章 室町時代
鎌倉幕府を倒したのは後醍醐天皇ではない
尊氏兄弟を引き裂いた「京都の二つの顔」
南北朝はなぜ五十年あまりも続いたのか
細川頼之がつくった「義満一三九二体制」
応仁の乱は尊氏派vs.直義派の最終決戦だった
・第六章 戦国時代
戦国時代とは何か
「信長=普通の戦国大名」説に反論する
信長最大のライバルは一向宗だった
西国大名のグローバル度
秀吉はなぜ家康を潰さなかったのか
・第七章 江戸時代
江戸時代 近代から見るか、中世から見るか
「一六〇三年江戸幕府成立」説を疑う
江戸幕府の名君と暗君は誰か
「鎖国はなかった」説を外圧理論で考える
幕府を滅ぼした「働かないおじさん」問題
それでは第一章から見ていきましょう。
この章では、日本史という学問の基本がたっぷりページを割いて説明されています。日本史は史料を読み解き、歴史解釈を行うことの繰り返しで組み立てられていますが、その中で見えてくる興味深いことが記されています。
たとえば「時代の名前」。イギリスの歴史はウェセックス朝、デーン朝、ノルマン朝、プランタジネット朝、ランカスター朝、ヨーク朝、テューダー朝、ステュアート朝、ハノーヴァー朝、ウィンザー朝と、王朝名で時代を区分します。中国史も秦、漢、隋、唐、宋、元、明、清と王朝が名乗った国号で区分しています。
しかし日本ではそれができません。なぜなら、王朝はずっと天皇家であるため、「天皇時代」が古代から現代まで続いてしまうからです。では朝廷の場所で区分しようとすると、飛鳥時代、奈良時代、京都時代、東京時代とこちらもおおざっぱになってしまいます。
そこで日本ではその時代の実質的な支配者がいた場所を時代名としました。鎌倉時代の次が京都時代ではなく室町時代なのは、京都が何度も出てくるからです。室町とは、三代将軍足利義満の居宅があった場所の地名です。
安土・桃山時代の場合は、信長の居城のあった安土はいいとして、秀吉の居城の伏見を使うのではなく、伏見の美称である「桃山」を使うところなどは、ひとひねりされていると感じます。
そのような時代区分の考えがいつからできたかというと、著者は新井白石からだと考えています。新井白石は著書の中で朝廷で9回、武士の世になって5回の大きな変化があったと説きました。
朝廷での9回とは、
(1)藤原良房の摂政就任(天皇家以外からの初の摂政就任)
(2)藤原基経の関白就任(陽成天皇を廃位、光孝天皇を立てる)
(3)冷泉天皇の時代の外戚、藤原氏の専横
(4)後三条、白河両天皇による親政
(5)白河上皇による院政
(6)後白河上皇、鎌倉と天下兵馬の権を分かつ
(7)後堀河天皇時代の北条氏の支配確立(承久の乱)
(8)後醍醐天皇による建武の新政
(9)足利尊氏による光明天皇立位(三種の神器なし、武士主導による天皇の即位)
武士の世の5回とは、
(1)鎌倉幕府成立
(2)承久の乱(北条執権による支配の確立)
(3)室町幕府の開設
(4)織田豊臣政権
(5)当代(江戸幕府)
第二章は古代です。古代は後の時代に比べて史料が少なく、大和朝廷の自画像である『古事記』『日本書紀』がメインとなります。大和朝廷の前身であるヤマト王権は奈良県を中心とする豪族の政治連合体でした。
それが勢いを持ったのは、大陸や半島から数百年進んだ技術や政治システムを取り入れることができたからです。聖徳太子が主導的な役割を果たした仏教の受容、遣隋使、冠位十二階や十七条憲法はその象徴的なものです。
大和朝廷が奈良盆地に置かれた理由について、著者は「大陸・半島から攻められても時間と距離が稼げる畿内のどん詰まり」だったからと推論しています。
そして著者は大和朝廷の支配の仕方を「古代フランチャイズ制」と呼んでいます。大陸由来の進んだ文物とテクノロジーを見せつけて地方の豪族を傘下に入れていったからです。地方豪族は一定の貢納をすることでフランチャイジーになることができます。その場合の看板に相当するのが、巨大古墳です。
第三章は平安時代です。
平安時代の初期に坂上田村麻呂による東北平定が行われていますが、著者はこれを大規模な軍事侵攻ではなく、調査探検か威力偵察程度のものではなかったかと見ています。
この時代には遣唐使が廃止されますが、その理由について著者は菅原道真の言う「もはや唐に学ぶものがなくなった」からではなく、「唐が弱体化して日本を侵略する力がなくなった」からだと考察しています。
平将門の乱について、著者は「朝廷とは別の体制が東国に生まれる可能性を示した、最初の出来事」と考えています。当時、貴族は地方を統治などしていませんでした。律令によって定められたタテマエに従って貴族は地方から税を取るだけでした。
そうした貴族の横暴に対抗して生まれたのが武士階級でした。関東で最初に力を付けたのは平氏で、平氏が西国に移動した空白地帯で源氏が力を持つようになりました。平将門の乱を鎮圧したのは、朝廷ではなく東国武士です。このことが武士という新しい勢力の成長をあらわしています。
第四章は鎌倉時代です。今の大河ドラマの時代ですね。
この時代の最大の謎は、なぜ関東武士が源頼朝を担いだのかという点です。
源義家を祖先に持ち、平治の乱で敗れた源義朝の嫡男として生まれた頼朝は、母が熱田神宮の大宮司の娘という家柄の良さもあり、生まれたときから源氏の跡取りと見なされていました。
しかし頼朝には領地がなく、親兄弟はバラバラで家来もほとんどいませんでした。つまり、ブランドしかない実力ゼロの存在だったわけです。それでも次々と味方が参集したのは、頼朝にはブランドに加えて都生まれ都育ちのため、朝廷と話をつけるスキルがあったためでした。
鎌倉幕府といえば、その設立年が「1192」ではないという話題がよく出ますが、本書では「幕府をどう捉えるかで成立年が変わる」としています。1192年は頼朝が征夷大将軍に任命された年で、征夷大将軍とは武士政権のトップです。しかし頼朝は1194年に征夷大将軍を辞めているので、1192年に意味があるという論拠が希薄になります。近年の教科書などでは、1185年説がよく見られます。
最後に、冒頭で触れた「なぜ秀吉は家康を潰さなかったのか」ですが、それは秀吉の大目標が日本に中央集権国家を作ることだったからです。そのために最強の敵である家康と手を組みました。さらに、秀吉は自分の死後、豊臣家が日本を支配し続けられると思っていなかった可能性があります。
秀吉は死の床に家康を呼び、「くれぐれも秀頼を頼む」と懇願したと伝えられています。それは王国を秀頼に継がせてくれと頼んだのではなく、そこそこの大名でいいから生き延びさせてくれという願いだったのかもしれません。
以下、まだまだ内容が続きますが、歴史好きならぜひ呼んでおきたい1冊です。