本書の2人の著者については、いまさら説明の必要はないと思いますが、念のために記しておきます。
成毛眞氏は、1955年北海道生まれ。元日本マイクロソフト代表取締役社長で、2000年に退社後、投資コンサルティング会社「インスパイア」を設立し、現在は書評サイトHONZ代表も務めています。おもな著書は『amazon 世界最先端の戦略がわかる』(ダイヤモンド社)、『アフターコロナの生存戦略 不安定な情勢でも自由に遊び存分に稼ぐための新コンセプト』(KADOKAWA)、『バズる書き方 書く力が、人もお金も引き寄せる』(SB新書)など多数あります。
冨山和彦氏は、1960年東京生まれ。経営共創基盤グループ会長。日本共創プラットフォーム代表取締役社長。ボストン コンサルティング グループ、コーポレイトディレクション代表取締役を経て、産業再生機構設立時にCOOに就任。その後経営共創基盤、日本共創プラットフォームを設立しました。政府関連委員も多数歴任しています。おもな著書に『「不連続な変化の時代」を生き抜く リーダーの「挫折力」』(PHP研究所)、『コーポレート・トランスフォーメーション 日本の会社をつくり変える』(文春e-Book)、『コロナショック・サバイバル 日本経済復興計画』(文春e-Book)などがあります。
なぜ本書のタイトルに「2025年」という具体的な年が入っているのか。その理由は「はじめに」で成毛氏が明らかにしています。
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2025年には団塊の世代が後期高齢者になる。75歳男性の平均余命は12.63年、つまり2037年には半数が亡くなる。問題は人口減少という数の論理だけではない。現代日本は「昭和の負の遺産」を引きずり続けている。かつては経済発展の推進力として機能していた「昭和的あり方」が、今ではすっかりガンとなっているのだ。このままでは、日本は三流国に転じてしまう。(中略)そこで本書では、地に足の着いた「戦略」を提案すべく、冨山和彦氏とともに筆をとった。
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本書は項目ごとに著者名を明らかにして、その項目が交互に、あるいは少しまとまって掲載されています。その章を2人で自由に論じていく進め方です。まず章立てを明らかにして、それから2人の主張をかいつまんで紹介していくことにしましょう。
・はじめに(成毛眞)
・第1章 「100%自己責任時代」が始まる――日本はなぜ二流国になったのか
・第2章 日本経済再生戦略――イノベーションで革命を起こせ
・第3章 これからの日本をどう生きるか――もう、学歴に価値はない
・第4章 日本経済を救う処方箋――「自分勝手」が国、会社、個人を変える
・おわりに(冨山和彦)
第1章の冒頭からファンの方にはお馴染みの「成毛節」が炸裂します。ここで成毛氏は「これからは100%自己責任の時代になる」と断言しています。その理由は、社会保障制度が破綻に向かっているからです。
今でも平均年金受取額が月14万円台である年金制度は、そう遠くない時点で実質的に破綻することが目に見えています。しかも団塊の世代が後期高齢者になることにより、大量の持ち家が市場に出てきます。つまり、不動産が老後を守る盾にはならないということです。
仮に有権者の許しが出たとして、今すぐ社会保障システムを劇的に改良したとしても、その効果が出るのは40年後。つまり、多くの人にとっては間に合いません。そして現実的にみれば、有権者が社会保障システムの改良を認めることはないでしょう。
ではどうすればいいのか。明治維新の背景には欧米列強の外圧がありました。80年前には敗戦という絶望的な状況が戦後復興を後押ししました。しかし、今の日本にはそのような強力な外圧が見当たりません。
成毛氏は、「現役世代は国を頼るのではなく、したたかに自分の身を守りながら、自分なりに楽しく幸せな人生をつくっていくことを考えたほうがいい」と言います。
政権交代によって社会が変わることを願う人もいるかもしれませんが、「世の中の変化に先んじて政府が大転換することはない」と成毛氏は断言しています。
ではなぜ、日本は低迷を続けているのでしょうか。成毛氏はその理由を「多くの日本企業が政府に『おんぶにだっこ』なので、生産力も国際競争力も落ちているのだ」と説明しています。
ここでドイツと日本の比較がなされます。ドイツの中小企業数は350万社で民間企業の99.5%。日本の中小企業は420万社で99.7%。ここまではほぼ同等ですが、それぞれの中小企業の輸出を見ると、大きく違います。
ドイツの中小企業全体の輸出額は年間2140億ユーロ。研究資金は100億ユーロ以上です。それに対して、日本の中小企業のうち、輸出しているのは全体の3割しかありません。そのため国の輸出総額がドイツの1兆3806億ドルに対して日本は6413億ドルと約半分です。
これは日本がおもに内需、つまり個人消費で食っているということの現れです。そして中小企業の7割が個人消費でしか食えないという現状を示しています。
続いて冨山氏は「耐用期限切れの昭和型成功モデルが新陳代謝を妨げる」と言います。政府のバラマキによる官制内需で日本企業の過半数が生き延びているという現状が、日本経済の低迷を長引かせ、それが個人所得を30年も伸びないままにしているというわけです。
官制内需と官制投資循環による仕組みは、昭和の高度経済成長期から今日まで、ずっと日本にがっちりと組み込まれてきました。それはかつては成功しましたが、今では日本が柔軟に変化することを妨げる足かせになっています。
かつての稲作農家、多くの古手の企業は、政府に飼い慣らされた結果、構造的に競争力を失い、政府の保護にしがみつくようになっています。そうなると、自力で稼ぐ道を切り拓くという当たり前の動機づけが失われます。
生産性を上げなくても補助金や優遇税制で食っていける。この仕組みから抜け出すには、よほどの強固な意志と卓越した経営能力が必要になります。その状況が、日本にイノベーション主導型の成長が循環するのを拒んでいます。
日本のような成熟した先進国で付加価値を生むには、デジタル化とグローバル化による破壊的イノベーションが必要です。その源泉は一人ひとりの人間がもつ発想力、創造力、行動力です。しかしそれは、古い組織のルールの中では開花しません。
冨山氏は「政府が救うべきはゾンビ企業ではなく、稼ぐ力が残っている事業であり、そこで働く人間である」と指摘します。今の日本は大量のゾンビ企業を無理やり延命させ、生産性の低い社会を作ってしまうというわけです。
冨山氏は次のように言います。
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バブル崩壊後の金融危機、ITバブルの崩壊、リーマンショック、東日本大震災、そしてコロナ禍と、この20年間、日本経済は何度も危機を経験してきた。そこで淘汰による新陳代謝が起こるなり、徹底的な自己改革によって付加価値生産性が上がるなりしていれば、日本の産業はもっと活発でおもしろいものになっていたかもしれない。
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しかし現実には有事に直面するたびに有効策を講じられず、大きな効果が見込める施策を断行する勇気もないため、「グダグダ」なパターンが繰り返されてきました。その都度、日本の潜在的危機が深まっていったわけです。
冨山氏は1991年のバブル崩壊に端を発する金融危機において、その末期に産業再生機構の実務責任者として3年間で問題を解決しました。しかし解決までにかかった時間はトータルで12年。一方、アメリカはリーマンショックにおいて、わずか3か月で不良資産救済プログラムに着手しています。12年と3か月の差は悲惨なほど大きなものです。
続いて再び成毛氏が登場し、次のように言います。「『空気を読まない』『集団に埋没しない』『権威・権力に屈しない』。そんな自分勝手に生きる個人こそが、今後は生き残っていくだろう」
成毛氏は「横並びのステータスを求める昭和の価値観は、すでにノスタルジーにすぎなくなった」と述べています。みんなで共通の概念を持ち、同じ高みを目指した時代が終わり、共通の価値観がほぼ消滅したからです。
第2章では、具体的な日本経済の再生戦略が語られます。成毛氏は「昭和オジイサンたちに『ご退散いただく』法」として、次のような提案をしています。
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たとえば、こんな方法はどうだろうか。
3部制への移行で、最上位のプライム市場には東証1部から1800社以上が組み込まれるという。だが、その上に「スーパープライム市場」をつくり、コングロマリット型大企業、すなわち経団連企業200社程度を閉じ込めるのだ。
スーパープライム市場の上場企業の経営者には、勲章でもくれてやればいい。サラリーマン素人経営者は、今生で最高の名誉と大喜びするだろう。かくして抵抗にあうことも恨みを買うこともなく、昭和を封じ込めるという目的は果たされる。一方、本当に将来性のある企業には資金が投入され、万々歳だ。
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冨山氏は「この国は出る杭を打ち、皆が昭和なホワイトカラーサラリーマン的中産階級に収斂する力を長年にわたり強烈に働かせてきたのである」と言います。日本はカイシャという終身年功制の平等な共同体で、お互いに助け合いながら社会主義的に生きていくシステム、すなわちカイシャ社会主義だったというわけです。
その日本独特の社会主義が行き過ぎて、今日の衰退を招いているというのが、冨山氏の主張です。
そこから脱却するには、高成長、高収益のビジネスモデルを確立できるレイヤーをうまく選択し、卓越した才能をもった若者たちを自由にさせることだと冨山氏は言います。そうすれば、生まれつきサイバー空間の立体感覚をもっている彼ら彼女らはきっとおもしろいレイヤーを選択する、あるいは創造するだろうということです。ただし、そこに昭和なオジサン、オジイサンたちが口を出さないことが条件になります。
第3章では、「これからの日本をどう生きるか」と題し、「もう学歴に価値はない」としています。成毛氏は「すべての人にまず示しておきたいのは、今や学歴にはほとんど価値がない、ということだ。高学歴の人は、それが武器になる時代が終わっていることを、高学歴でない人は、もう学歴を気にする必要はなくなったことを、それぞれ肝に銘じてほしい」と冒頭で語っています。
そして、「以前の学歴主義は、今は『職歴主義』になりつつある」と言います。最初に入った会社が、昔の「○○卒」に代替されつつあるというわけです。
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たとえば戦略コンサルティング、外資系投資銀行、総合商社などに入ると、その就職歴が武器となって、以後の転職や起業が有利になる。あるいは、社員数十名程度の国内テクノロジースタートアップに就職しても、やはり転職や起業はラクになるだろう。「こいつはクリエイティブなチャレンジャーだ」と認定されるからだ。
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さらに成毛氏は、大学に対して革新的な提案をしています。
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ここでひとつ提案だ。政府は全大学に対して、「2025年から理系学部の入試科目にプログラミングを入れなければ、補助金をカットする」と宣言すればいい。
進学校である中学高校は大学入試だけを見ているから、現状ではプログラミングなど教えない。だが、すべての大学の理系学部の入試科目に入れば、学習指導要領など関係なく、プログラミングを必死に教えるようになるだろう。結果的に、進学校ではない中学高校でも、あるいは大学の文系学部も、引きずられてIT化が進むはずだ。
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第4章では、本書のまとめとして「日本経済を救う処方箋」が語られます。ここでのキーワードは「自分勝手」です。
冒頭で、冨山氏は「日本は明治の伝統より、江戸時代のスタイルに立ち返れ」と言っています。伝統的な日本人というと「勤勉」「勤労」というイメージがあるかもしれませんが、それは明治以降に富国強兵という国家プロジェクトに必死になっていたころにつくられた人口的な「伝統」です。
冨山氏はそのつくられた伝統を、「せいぜい200年の歴史もない事柄を伝統とは呼ばない」と否定します。そして、物質的には裕福ではなかったけれど、庶民が職を転々としながら気ままに暮らしていた超リサイクル社会の江戸時代に立ち返れと言います。
成毛氏は、江戸時代的な生き方を「イタリア・スペイン型」と呼び、それが日本人にはぴったりだと主張します。特に符合するのはイタリアであるということです。
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イタリアは、ヨーロッパにおけるドイツのようにリーダーシップが取れる国ではないし、フランスのような農業大国でもない。イギリスのような階級と地域の分断も、さほど大きくはない。はたまたスペインのように他宗教による占領や大規模内乱の経験もない。
そして日本とイタリアは、片や日本は幕藩体制、片やイタリアは小国家体制が19世紀まで続いていた点でも似ているのだ。
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冨山氏は「新しい資本主義」について、次のように提案しています。
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自由ということは、好きなことをやっていいということだ。
政府、会社、学校、運動部、いろいろな次元で昭和なモデルに縛られてきた多くの日本人が、まずはその呪縛から解き放たれることが、この国の「新しい資本主義」を始動する第一歩だ。逆説的だが、国や会社が提示する「新しい資本主義」像に頼らず縛られず、自らの好き嫌いに正直に生きることこそが「新しい資本主義」がうまくいく鍵となる。さんざんに抑制されてきた分、それができたときに発揮される日本の潜在パワーは相当なもののはずだ。
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最後に、成毛さんは大胆な提案をしています。
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たとえば――と、また思いつきレベルのことを提案してみよう。
メガバンクやITゼネコンなどのドメスティック大企業から、すべての若手社員を成長分野や中小企業に引き抜くというのはどうだろう。
(中略)
途方もなく強力な慣性で生きている大企業に向かって、いくら外側から「変われ」と叱りつけても何も効果はない。だから、内側にいる若手社員を強制的に引っこ抜いてしまえばいいというわけだ。
すると、困った大企業は子会社や下請け企業などから人を採用し始めるだろう。結果的に平均給与も上がり始め、さらには昭和的ロートルだけになった大企業も変化せざるを得なくなる。
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自分の中にある「昭和的なもの」に別れを告げるための、きっかけになる本です。