著者の名前にピンとこなくても、雑誌「WIRED」の名前を聞いたことのない人はいないでしょう。テック文化を牽引する雑誌として知られる同誌は、1993年にサンフランシスコで創刊され、現在はアメリカのほか、日本など6カ国・地域で出版されています。
著者はその「WIRED」の創刊編集長です。もともとヒッピー向けの雑誌であった「ホール・アース・カタログ(全地球カタログ)」の編集者でした。この雑誌は日本の「ポパイ」や「宝島」に大きな影響を与えた存在でしたが、1974年に「Stay hungry. Stay foolish.(ずっと無謀で)」という言葉を裏表紙に飾って廃刊しています。この言葉は後にスティーブ・ジョブズがスタンフォード大学卒業式の式辞で紹介し、有名になりました。
「WIRED」はデジタル革命を中心に据えた雑誌で、「ロングテール」や「クラウドソーシング」といった時代を象徴するキーワードを提唱してきました。創刊された時代は、アップルが「PowerBook」を発売し、WWWが世の中に普及し始めたころでした。
著者はタイトルの「5000日」について、「インターネットが商用化されてから5000日後(13年後)にSNSが流行し始め、現在はそれから5000日後にあたる」と言っています。今ではスマートホンとSNSは現代に生きる人たちにとってなくてはならない存在になりました。「では次の5000日後は?」というのが本書のテーマです。
結論から先に紹介しておくと、著者は5000日後の世界を「すべてのものがAI(人工知能)に接続されたAR(拡張現実)の世界が訪れ、世界中に住む100万人単位の人がそのバーチャルな世界で協働することが可能になる」と述べています。現在のリモートワークがずっと進化したARを舞台に、同時翻訳によって言語の壁を超えた人々が一緒に働く世界です。
著者はその世界を「ミラーワールド」と呼んでいます。ミラーワールドはSNSがずっと進化した巨大プラットフォームであり、会社や政府もその中で機能します。これにより、製造業や金融、流通、交通、観光、農業、教育など、あらゆる分野に革命的な変化が起きます。
まさにSF小説の舞台のような話ですが、著者が言うと信憑性があります。というのは、著者はかつてGAFA(Google、Amazon、Facebook、Apple)などの巨大テクノロジー企業による「勝者総取り」現象や、すべてが無料化するフリーミアム経済の到来など、テクノロジーによって引き起こされる変化を予測し、的中させてきたからです。
なぜそのような予測が可能かについて、著者は「テクノロジーに耳を傾ければ未来がわかる」と語っています。ビル・ゲイツ、スティーブ・ジョブズ、ジェフ・ベゾスなどの伝説的な起業家たちを数多く取材して培われた視点が、その境地に到達させたのでしょう。
著者によれば、テクノロジーの持つ性質を見極め、それが何を欲しているかを知れば、そのテクノロジーがもたらす変化と未来の姿が自然と明らかになるといいます。本質を知れば、その波及効果はおのずと明らかになるということです。
本書はインタビューによる語り下ろしを翻訳し、編集して作られています。インタビューは2019年から2021年にかけて著者の自宅とオンライン会議で行われました。オンラインになった理由は、コロナ禍です。
それでは、本書の目次を紹介します。
・はじめに
・第1章 100万人が協働する未来
・第2章 進化するデジタル経済の現在地
・第3章 すべての産業はテクノロジーで生まれ変わる
・第4章 アジアの世紀とテック地政学
・第5章 テクノロジーに耳を傾ければ未来がわかる
・第6章 イノベーションと成功のジレンマ
・最後に
・あとがき
・訳者解説
本書の1~4章は5000日後の未来について、5、6章は未来予測について書かれています。特に第5章は本書の着想に至る流れが書かれているので、まずそちらから見ていくことにします。
著者の言う「テクノロジーが何を望んでいるか」という表現は、あたかもテクノロジーが生き物で、意思を持っているかのようです。著者は生きているかどうかは別として、テクノロジーにはある事象を好む傾向があるといいます。そして、たいていの場合、その傾向は発明者にはわからないものであるそうです。
それを知るために、著者はテクノロジーが若者や犯罪者によって街中で乱用されている様子に注目するようにしています。例えばインターネットは当初、図書館での検索や研究に使えると公式に言われていましたが、実際はゲームやポルノに使われているケースがほとんどでした。
そのように社会の最下層での使われ方を見れば、テクノロジーが持つ自然の方向性がわかるということです。そしてそれは往々にして、発明者の意図とは違った使われ方です。
それでは、そうした予測の末に生まれた著者のビジョンについて、第1章から追っていきます。第1章のタイトルは「百万人が協働する未来」。AIとARがもたらす巨大プラットフォーム上に世界中の才能ある人が集い、百万人単位で何かの目的のために働く世界を想定しています。
そのために活躍するツールが「スマートグラス」です。これにはARの機能が付いていて、離れたところにいる人同士が対面して共同作業を行うことができます。この技術の基礎は、マイクロソフトが2016年に「HoloLens」で実現しています。
離れた人たちが働く場合、報酬の支払い方が問題になります。それを解決するのは、ビットコインなどで有名になったブロックチェーンの技術でしょう。
同時に、言葉の問題を乗り越える必要があります。リアルタイムで多言語を自動翻訳する技術が進めば、これまでにない規模の共同作業が容易になります。これで、言葉の壁を超えて才能を集めることが可能になります。
すでに百万人単位での共同作業実験が行われていて、それは「Reddit」というSNSで開催されたものでした。百万の写真を画素として並べ、各人が自分の画素をコントロールできるようにして全体の絵を変化させるというものです。
著者は巨大プラットフォームの名前を「ミラーワールド」としていますが、それは著者が命名したものではありません。イェール大学のデビッド・ガランター教授が最初に広めた言葉で、スピルバーグ監督の映画『レディ・プレイヤー1』に出てくる現実の世界の上にバーチャルな世界が覆い被さったものを指しています。
ミラーワールドでは、人々は現実には地球上のどこかの地域に住んでいますが、同時にスマートグラスを通じて地球サイズのバーチャルな世界にも存在しています。これはゲーム「ポケモンGO」でその片鱗が見えました。
インターネットは世界中の情報をデジタル化し、検索可能にしました。その次のプラットフォームであるSNSは、機械が人間関係を認識できるようにして、そこにAIやアルゴリズムが適用可能になりました。ミラーワールドは、それに続く第3の大きなプラットフォームです。
ミラーワールドが可能にするのは、現実の世界や関係性を検索し、それを利用して新しいものを生み出すためにAIやアルゴリズムを適用するものです。すべての対象がデジタル化されることにより、機械がそれを認識することが可能になります。
仮想空間上にすべてのものをマッピングすることで、今までにモノのインターネット(IoT)などで目指したものの、未だに不可能であった「インターネットにおける意味的な関係の定義」=「セマンティックWeb」が実現することとなりました。
具体的には、スマートグラスをかけた人が仮想空間で机の上の水の入ったコップを見ます。するとAIはコップを認識し、そのコップに関する情報を検索して整理します。これでその人が望めば、そのコップの価格やメーカーを知ることができるわけです。もちろん、購入することも当然可能になります。
つまり、ミラーワールドでは特別なインターネットサイトなど不要になるということです。仮想空間上で見るものは現在の姿とは限らず、たとえば観光地や町並みで、その100年前の状況を呼び出して見ることも可能です。そこに現れたものの中に購入可能なものがあれば、すぐ注文して決済することができるようになるでしょう。
そんなミラーワールドは誰が運営することになるでしょうか。現在のインターネットはアメリカの市民とNPO団体により運営されています。そこから考えれば、ミラーワールドも政府以外のNPO団体によって運営される可能性が高いでしょう。インターネットのブラウザーに相当する製品は、大手の会社によって供給されるかもしれません。
ミラーワールドのビジネスモデルは、広告収益モデルとサブスクリプションモデルの併用になりそうです。長期的にはサブスクリプションになることが望ましいと著者は考えています。
そんなミラーワールドの勝者は、どんな会社でしょうか。著者は「GAFAのどの会社でもない」と言います。なぜなら、ある分野で支配的だった者が次の時代のプラットフォームに残った歴史がないからです。
IBMはコンピュータの巨人でしたが、ハードウェアの競合ではなく、ソフトウェア会社のマイクロソフトに敗れました。マイクロソフトは検索会社のグーグルに地位を追われました。グーグルはソーシャルメディア会社のフェイスブックに押しのけられました。おそらくフェイスブックに勝つのはARの会社でしょう。
ミラーワールドでの仕事の仕方は、今までの企業における労働形態とは変わるはずです。しかも画一的である必要がないため、フルタイム、パートタイム、リモートが混在したものになるでしょう。
そしてARを使って集まることができるため、千人での共同作業も可能になります。以前にエリック・ウィテカーという音楽監督がリモート会議の方式で世界各国の二千人の歌手を使って合唱を試みたことがあります。
もちろん、その一方で、リアルな対面の価値が高まっていきます。要するに、選択肢がどんどん広がっていくということです。何かのプロジェクトでスタッフが不足していれば、カンボジアから即座に人材を招いて協力してもらい、報酬をブロックチェーンで支払うという形が当たり前になるはずです。
ミラーワールドでは、今よりも老人が元気になるかもしれません。老人がテクノロジーを自在に扱うことができれば、若者は経験において勝つことができないからです。だから来るべき世界では、若者を保護する必要が出てくるかもしれません。
著者は「これから50年はAIの時代が続く」と予言しています。そして現在はその最初期の段階です。21世紀が終わる頃には、人間の体や生物学的現象もAIによって改造されているでしょう。
未来を考えるヒントになる1冊です。