全440ページと、通常のビジネス書の2倍ほどのボリュームがありますが、平易な文章で全編が「ものづくり」への愛にあふれているので、興味深く読めます。まず目次を紹介します。
・イントロダクション
・第1章 少年時代
・第2章 アートスクール
・第3章 シートラック
・第4章 ボールバロー
・第5章 コーチハウス
・第6章 DC01の誕生
・第7章 コアテクノロジー
・第8章 真のグローバル企業へ
・第9章 最高の電気自動車
・第10章 農業を再生する
・第11章 教育を変える
・第12章 未来をつくる
著者の考え方や、本書が何のために書かれたかを知るには、「イントロダクション」をじっくり読むといいでしょう。イントロダクションはこんな文章から始まります。
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1983年、4年をかけてプロトタイプ5127個をこの手で作り、テストし続けた後に、僕はようやくサイクロン掃除機の発明に成功した。たぶん、拳を突き上げ、大声を上げ、「ユーレカ!」と思いっきり叫びながら、作業場から道路に走り出すべき場面だったはずだ。ところが、有頂天――5126個の失敗の後だから確かに舞い上がって当然だが――にはほど遠く、不思議なくらいに気分は凹んでいた。
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「ユーレカ」は「ユリイカ」とも表記されますが、アルキメデスがお風呂に入って自分の体積でお湯があふれるのを見て、金の純度の測定法を発見したときに叫んだと言われる言葉です。「われ見出せり」などと訳されますが、「わかったぞ!」ということでしょう。「道路に走り出す」とは、アルキメデスが裸のままで外に飛び出した逸話になぞらえた表現です。
なぜダイソン氏は発明に成功したのに気持ちが凹んでいたのでしょうか。それは次の文章で明らかにされます。
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なぜそんなふうだったのか? 失敗にこそ、答えがあるからだ。来る日も来る日も、借金返済に追われながら、僕は気流から効率よくホコリを集塵・分離するサイクロンの開発に邁進していた。(中略)発明の本質とは、成功の瞬間に至るまで、失敗を受け入れ続けることにある。奇妙なことだが、発明が得意なエンジニアは、自分の直近の創造物には決して満足しないものである。
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著者であるジェームズ・ダイソン氏は、1947年にイギリスのノーフォークに生まれ、英国王立美術大学で家具とインテリアのデザインを学びました。そのまま行けば工業デザイナーへの道を歩むはずでしたが、工学に転向してエンジニアになりました。
彼は日本と浅からぬ因縁があります。発明品であるサイクロン掃除機を最初に販売したのは英国ではなく日本の企業でしたし、彼は日本人のものづくりに対する姿勢に深い敬意を表しています。それがわかる文章が、第2章に出てきます。
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1958年に登場したホンダ50、日本ではスーパーカブと呼ばれるこのバイクは、史上最もたくさん生産されたモーター付きの車である。(中略)エンジニアである本田宗一郎――取り憑かれたかのように製品の改良を続けた彼の姿勢を僕は大変尊敬している――とセールスマンの藤澤武夫が発明したスーバーカブは、所有して乗ることのシンプルさを極めた製品だった。
駆動チェーンを覆い隠したプラスチック製のボディやレッグガードのクリーンな見た目、9500という高速回転数で4.5馬力を出す小さな49ccの4ストロークエンジンによるきびきびとした走り。これこそ、独創的発明力のある製造業者が既存製品――この場合はローコストのモーターバイク――に取り組み、当時のどんな製品よりもはるかに優れた魅力的な製品に作り変えてしまった、早期の例である。
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ダイソン氏は在学中に現在の奥方と恋に落ち、2人とも奨学金で暮らしていた身でありながら、結婚を決意しました。不足する生活費を借金でまかなったため、2人の借金は1万ポンドという当時の2人にとっては天文学的レベルにまで積み上がりました。
その借金を完済したのは48歳のときで、負債総額は65万ポンド(約1億円)に達していたそうです。そのおかげで、ダイソン氏は「よいことに使うためなら借金は素晴らしい」という考えを持つに至りました。これが後に、サイクロン掃除機の研究のために借金を積み上げても平気だったということの伏線になります。
在学中に、ダイソン氏は高速水陸両用艇「シートラック」の開発に携わるチャンスを得ます。そして卒業後はその開発と販売に従事することになりました。水上でも陸上でも遅かった従来の水陸両用艇とは違い、シートラックは水上を驚くほどの高速で移動することができました。シートラックは40カ国で販売されるヒット商品となります。
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シートラックは、まさに「何でも屋」であり、ランドローバー(しばしばシートラックのデッキ用車両になっていた)、スイス・アーミーのペンナイフ、シトロエン2CV、ベル47ヘリコプター、アレック・イシゴニスが手がけたミニと同じく、エンジニアリングと控えめなデザインとは何かを教えてくれる学校のようなものだった。
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ここでダイソン氏は、みずからの発明品を、歴史的な大ヒット発明と並べています。それほど自分が生み出したものに自信があったということです。謙虚さの反対に見えるこの姿勢こそが、発明という営みを続ける原動力であったということがわかります。
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ここに列挙した機械の何がそんなに好きなのかといえば、その絶妙なアイデア、そして独創的な発明の才が生み出したデザインがそれぞれの市場セクターを一変させたり、新しい市場を創り出したりさえしたという事実である。
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ここで例示されている「アレック・イシゴニスのミニ」とは、BMWがそのデザインモチーフを現代風にして売っている現在のミニではなく、軽自動車のような大きさで一世を風靡した革命的な前輪駆動の乗用車のことを指しています。
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例えば、ミニを革命的な製品にした特長の数々は、どれもすでにおなじみのものだった。1959年に登場したミニ以前にも、横置きエンジンの車はあった。(中略)乗員の空間を最大化するボックス型の自動車もあったし、ラバーサスペンションもすでに存在していた。イシゴニスはこれらのアイデアを詰め込んで、非常にささやかなサイズ――車長は約3メートル、車幅は約1.4メートルしかない――でありながらも、大人4人と荷物を載せられて、ゴーカートのように小回りのきく小さな車にまとめあげた。
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そしてダイソンの社屋には、オリジナルのモーリス・ミニ・マイナーが展示されているそうです。「独創的なエンジニアリングデザインとは何か」を日々思い出させてくれる存在として、ダイソン氏の60歳の誕生日に社内のエンジニアたちがプレゼントしてくれたそうです。
そして著者がミニと同様に尊敬の念を抱いているのが、ソニーのウォークマンです。
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ソニーのウォークマンもまた、魅力的なサクセスストーリーだ。なぜなら、当初は常識に反したデザインに見えたからだ。学校や大学の夏休みの開始を見据え、1979年7月1日に発売されると、動き回りながらヘッドフォンで音楽を聴けるパーソナルカセットプレーヤーは初日からとてつもない大人気商品になった。
シルバーとブルーのコンパクトなウォークマンは、150米ドルと安くはなかったし、「録音機能のないテープレコーダー」を作った人などいなかったから、ソニーの社内でも議論が紛糾した大胆な製品だった。それでも、井深大――ソニー創業者の一人――はひと月で5000台売るつもりだった。ところが、発売2カ月で5万台も売れたのだ。2010年に製造終了になるまでののべ売上台数は、世界で4億台を超えていた。
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1974年にダイソン氏はシートラックに対する熱意を失った会社を離れ、独立起業しました。この年、イギリスのインフレ率は16%に達し、翌年には24%に上りました。金利も24%という高利になり、融資を受けて製造業で起業するには完全な逆風でした。
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当時、英国にイノベーションが必要なのは火を見るより明らかだった。日本のメーカーが英国に自動車の輸出を始めると、国民は危機感を募らせた。(中略)モーリス・マリーナやオースチン・アレグロは新しいホンダ・シビックやルノー・サンク、あるいはフォルクスワーゲン・ゴルフに比べると、痛々しいほど野暮ったかった。だが、当時の僕は、自動車のデザインや生産のような大がかりなものには目を向けていなかった。むしろもっと地味で、泥臭いものが頭にあった――庭仕事や建設現場で使う手押し車の改良だ。
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ダイソン氏の言う「手押し車の改良」とは、泥濘地ですぐにタイヤが泥にめり込んで動かなくなる従来の手押し車を全面的に見直すというものでした。タイヤをボールに変え、荷台も軽くて使いやすいものにするというアイデアを実現するため、さまざまな部品工場を訪ね歩きます。
そして銀行から資金を借り入れ、さらに個人的な借金もして、改良型手押し車「ボールバロー」の製造会社を立ち上げました。雑誌や新聞での広報記事や、BBCの番組に出演したことが後押しとなり、ボールバローは全国的に売れ始めました。
伸びた売上をカバーするために、ダイソン氏は新しい工場を借りて製造を始めます。しかし、そこで問題が起きました。鋼管フレームを静電塗装する際に、工場内に粉体塗料が舞うようになったのです。
困ったダイソン氏は同業者に解決策を聞いて回りました。そこで教えられたのが、サイクロン式分離機でした。サイクロン式分離機は1日中可動して粉塵を漏らさず吸い集め、決して目詰まりを起こすことがありませんでした。
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サイクロンの遠心分離集塵機構は実に魅力的だった。遠心力で気流を巧みに操作し、魔法のように塵の粒子を分離するのだが、テクノロジーそのものに新奇性はほとんどなかった。実際、サイクロン式分離機の初の特許については、1885年に、米国ミシガン州ジャクソンで木製キャビネットなどを製造していたニッカボッカー社のジョン・M・フィンチなる人物が取得していた。
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市販のサイクロン式分離機は7万5000ポンドと高額だったため、ダイソン氏は自分たちで集塵機を作ることにしました。設計図はなく、ダイソン氏の描いたスケッチだけで、週末を2回潰して完成させたそうです。
しかしダイソン氏は自分で始めた会社を追われてしまいます。ボールバローの特許を個人でなく会社に帰属させていたため、別の大株主に経営権を握られた瞬間に、ダイソン氏はライセンスと特許と会社をまとめて失ってしまうことになりました。
この失敗から、ダイソン氏は貴重な教訓を得ました。特許を押さえるという教訓と株主を持たないという教訓です。会社の全支配権を自分で握り、その価値を決して低く見積もらないことも学びました。
1979年に会社を離れて我が道を進む自由を得たダイソン氏は、無収入なのに高額の住宅ローンを抱え、3人の子供の末っ子はまだ6カ月という状況でした。しかしダイソン氏には自分のやりたいことがわかっていました。それは、集塵機にヒントを得たサイクロン掃除機の開発です。
長期にわたってイノベーションが起こっていない掃除機業界に対して、市場は新しい製品を待ち望んでいるはずでした。そして掃除機は一家に1台必ず必要な不況知らずの製品です。
それから15年間、ダイソン氏は借金まみれになりながら、5126回の失敗を経て、ついにサイクロン掃除機を完成させました。しかし、彼の発明を買うメーカーはありませんでした。どのメーカーもヨーロッパだけで年間5億ドルもの規模がある紙パック市場を失いたくなかったからです。
救い主はエイペックスという日本の小さな企業でした。高級なプロダクトデザインを紹介する書籍に掲載されたサイクロン掃除機の写真に目をとめ、売りたいと申し出てきたのです。そして日本のシルバー精工が製造を担当し、サイクロン掃除機は「Gフォース」という名前で1986年に発売されました。価格は25万円でした。
やがてダイソン社は大ヒット商品になるサイクロン掃除機DC01を発売し、そこから誰もが知っている快進撃が始まります。
ここまでで本書の約半分です。後半はダイソン社がグローバル企業へ拡大していく様子や、さまざまな分野に発明を展開していく様子が細かく語られています。ものづくりに興味のある人、起業に興味のある人、そしてもちろん、すべての経営者に読んでほしい本です。