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ルポ 誰が国語力を殺すのか

石井光太・著/文藝春秋・刊

1,700円(キンドル版・税込)/1,760円(紙版・税込)

最初に著者を紹介します。著者の石井光太氏は1977年(昭和52年)東京都世田谷区生まれの46歳で、ノンフィクション作家、小説家、コメンテイターです。

父親は舞台美術家の石井みつる氏で、小学生のころから映画か文学の道に進むことを希望していました。高校時代に作家になることを目指し、大学1年でアフガニスタンの難民キャンプを単身で訪れ、ノンフィクション作家になることを決めたといいます。

日本大学芸術学部文学科を卒業後、就職活動をせずに海外に渡り、デビュー作である『物乞う仏陀』を著しました。この作品は開高健ノンフィクション賞、大宅壮一ノンフィクション賞にノミネートされています。

著書は多数ありますが、代表的なものは『物乞う仏陀』(文藝春秋)、『レンタルチャイルド-神に弄ばれる貧しき子供たち』(新潮社)、『遺体-震災、津波の果てに』(新潮社)、『ぼくたちは なぜ、学校へ行くのか。―マララ・ユスフザイさんの国連演説から考える』(ポプラ社)、『蛍の森』、『浮浪児1945-戦争が生んだ子供たち』、『「鬼畜」の家』(新潮社)、『43回の殺意』(双葉社)などです。

さて、本書ですが、タイトルと表紙を見てどんな内容が書かれていると思われたでしょうか。このタイトルについては、アマゾンの書評などでも賛否があるようです。

「誰が」「国語力」「殺す」という言葉がキーワードとして入ってきますが、本書は「日本の子供たちに極端なコミュニケーション力の低下が見られる」ということをテーマにしています。コミュニケーション力を「国語力」と言い換えているようです。

まず目次を紹介し、次に序章を詳しく紹介していこうと思います。

・序章
『ごんぎつね』の読めない小学生たち
『読解力低下』をめぐる議論
国語力とは何か

・第一章 誰が殺されているのか――格差と国語力
ある教室での日常の風景
何が子供たちの環境を変えたのか
反省できない子供たち
ケース(1) 校内暴力
ケース(2) 恐喝事件
ケース(3) 下着姿撮影
家庭環境でのつまずき
言葉の発達と家庭格差

・第二章 学校が殺したのか――教育崩壊
ゆとりに至る道
ゆとり教育の裏で何が起きていたのか
社会が求める要求の肥大化
驟雨のように降り注ぐ新しい指導
学校は崩壊しているのか
国が描く未来予想図

・第三章 ネットが悪いのか――SNS言語の侵略
ネットいじめと学力の相関関係
ネットの密室に飛び交う言葉
熊本県インスタいじめ自殺事件
少女を死に追いやった言葉
現代の言語環境の特殊性

・第四章 19万人の不登校児を救え――フリースクールでの再生
不登校の理由がわからない
不登校問題の変遷
何が子供たちを学校から追いやるのか
O美(中学2年)――教育虐待
P依(高校1年)――親の精神疾患
Q馬(中学2年)――不適応
言葉を取り戻せば学校へ行ける
「答えのない時代」を生きる

・第五章 ゲーム世界から子供を奪還する――ネット依存からの脱却
あるゲーム依存者
ネット依存って何?
なぜゲーム依存は子供から言葉を奪うのか
回復への道筋
ゲーム市場拡大の裏側で

・第六章 非行少年の心に色彩を与える――少年院の言語回復プログラム
オノマトペでしか罪を説明できない
R華(17歳)――売春
「表現教育」のスタート地点
言葉を取り戻した少女の詩
社会で少年院を出た子供を支える
心のスポンジに言葉を染み込ませる
共通する5つのステップ

・第七章 小学校はいかに子供を救うのか――国語力育成の最前線1
本物の体験を通して感受性を育てる
授業を創意工夫する
学校として「成長」を評価する
「思考ツール」の活用

・第八章 中学校はいかに子供を救うのか――国語力育成の最前線2
最良の教科書は文庫本
スピーチ、ディベート、レポート
国際バカロレア認定校の哲学対話
聞く力がもたらすもの
世界の色を取り戻す

・終章
コロナ後の格差と感情労働
ヘレン・ケラーが照らし出すもの

序章は都内のある公立小学校の授業風景から始まります。著者は4年生の国語の授業見学で児童の発言に耳を疑いました。

授業は教科書に載っていた『ごんぎつね』の一節を読んだ後、班ごとに分かれてその場面について話し合い、意見を述べているところでした。

『ごんぎつね』は作家の新美南吉が18歳の時に書いた児童文学で、「ごん」といういたずら好きの狐が近くの村に住む「兵十(ひょうじゅう)」という男の捕ったうなぎや魚を逃がしてしまうことから始まります。

10日ほど後、ごんは兵十の家で母親の葬儀が行われているのを見かけました。兵十が魚を捕っていたのは、病気の母親に食べさせるためでした。そのことに気づいたごんは、罪ほろぼしのために毎日、兵十の家に内緒で栗や松茸を届けるようになりました。

しかし、家に忍び込んでいるごんの姿を見た兵十は、いたずらをしに来たのかと勘違いして猟銃でごんを撃ち殺してしまいます。その直後、土間に栗が置かれているのを見た兵十は、これまで食べ物を運んできてくれていたのがごんであることを知り、その場に立ちすくみます。

授業で取り上げたのは、ごんが兵十の母親の葬儀に出くわす場面でした。兵十の家に村人たちが集まり、葬儀の準備をしています。家の前では村の女たちが大きな鍋で料理をしています。作中では、ごんの視点で描かれているので、次のように描写されています。

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よそいきの着物を着て、腰に手ぬぐいを下げたりした女たちが、表のかまどで火をたいています。大きななべの中では、何かぐずぐずにえていました。
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ここで先生は、児童に「鍋で何を煮ているのか」を話し合わせました。ごんの視点で書かれた描写に不足している部分を、想像で補う課題を与えたわけです。常識的な大人であれば、昔の葬式風景を考えて、参列者に供する煮物などを作っているのだと考えることでしょう。

しかし、子供たちの答えは違いました。「兵十の母の死体を消毒している」「死体を煮て溶かしている」と答えたのです。

著者は最初、子供たちがふざけて答えているのだと思いました。しかし、8つの班のうち5つの班が「死体を煮ている」と真剣な表情で答えたのです。ちなみに、この小学校は学力レベルとしてはごく普通の小学校です。

授業見学の後、著者は校長先生とこの場面について話し合いました。校長先生は次のように言いました。
「最近は多かれ少なかれあのような意見が出るのが普通です。残念ながら、似たようなことは私も他の学校でしばしば経験してきました」

そして校長先生はこの場面を「単なる誤読ではない」と断定しました。「母親の死体を煮ているというのは、常識に照らし合わせれば明らかにおかしいとわかるはずで、平気でそう解釈してしまうのは単なる読み間違えではありません」

校長先生が指摘しているのは、今の子供たちに読解力以前の基礎的な能力、「登場人物の気持ちを想像する力」や「別のことを結びつけて考える力」、「物事の背景を思い描く力」、「自分の考えを客観視する批判的思考力」などが不足しているということでした。

著者はここで、国際的な学力テストである「PISA(生徒の学習到達度調査)」の結果を紹介します。PISAはOECD(経済協力開発機構)が調査参加国の15歳の子供に対して行っているもので、数学的リテラシー、科学的リテラシー、読解力の3つをテストしています。

このテストは3年ごとに行われていますが、日本は第1回の2000年から参加しています。その結果ですが、日本は数学的リテラシー、科学的リテラシーが常に上位であるにもかかわらず、読解力が長年低迷しているのが特徴でした。

2018年の結果を見ても、数学が6位、科学が5位であるのに対して、読解力は15位となっています。

このことは国立情報学研究所の新井紀子教授が著した『AI vs 教科書が読めない子どもたち』という本で大きな話題となりました。新井教授はこの本の中で、「小学校のクラスのうちで教科書を正確に読むことができているのは2、3人しかいない」という調査研究の結果を明らかにしています。

このように、日本の子供たちの読解力が低下しているのは、教育関係者の中で大きな問題となっているのですが、著者は「問題はその手前にある」と言います。

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そもそも学校現場で見られる子供たちの思考力の欠如や珍妙な解釈を、「読解力の低下」という問題だけに留めて考えていいのかということである。文章を正確に読んで理解する以前のところで、子供たちは何か大きなものにつまずいているのではないか。
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そして先の校長先生の言葉が続きます。
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教育現場にいて感じるのは、国語の文章が読めるかどうかは一つの事象でしかなく、他の教科や日常においても、先に話したのと同じような現象がみられることの方が危ういということです。(中略)読解力というのはテクニックのような面もあります。方法を教えて練習をつみ重ねれば読めるようになります。でも、子供たちはテクニックをつける前段階のところで、重大な力を失っているように思えてならないのです。
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今の子供たちは、好ましくないことが起こるとすぐに「死ね」と吐き捨てる傾向があるそうです。しかし、言われた側がその言葉をどう受け止めるかを考えてはいません。その結果、言われた側が深く傷ついて学校に来られなくなっても、自分が原因だと考えることができません。

著者はここから、今の日本の子供たちに起きている、もしかすると大人たちにも進行している「コミュニケーション崩壊」を導き出します。ひきこもりや不登校、残忍な暴力事件などがその延長線上に浮かび上がってきます。

ふたたび先の校長先生の言葉が出てきます。
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現在の教育のあり方は、子供たちが社会で生きていくために必要な国語力を与えるのに適した仕組みになっているでしょうか。たとえば今さかんに言われている読解力をつけようみたいな話は、教科書の文章を正確に読ませることの方に重点が置かれていて、そうした力を養わせることが二の次にされているように思うのです。私は国語が果たす役割を、もう一度きちんと見つめる段階に来ていると真剣に考えています。
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ここまでが序章で、次の第一章では、表現力が違う子供たちのグループを比較しています。話しているのは同じ内容です。
「あのゲーム、くそヤバかったっしょ」
「ああ、エグかった」
「ってか、おまえ台パン(ゲーム機の台を興奮して叩くこと)しすぎ」
「あれ、まじヤバかったよね。店員ガン見だから」
「くそウザ」
「つーか、おまえがウザ」
「は、死ねよ」
「おまえが死ね」

「あのゲーム、すごく展開が早くて、やっていてのめり込んじゃったね」
「うん。僕は映像がすごくかっこいいと思った」
「夢中になって、興奮して台を叩いていなかった?」
「店員さん、見てたよね」
「お店の人や、回りに悪いことしたなあ」
「これから気をつけた方がいいよね」

著者は全国の教員約120名に「子供たちの国語力が低下していると思うか」という質問をしてみました。答えは三択で「低下している」「低下しているかどうかは不明だが不足している」「上がっている」の中から選んでもらいました。

集計すると、次のようになりました。
・低下している……5割
・不足している……3割
・上がっている……1割
・上がっている……1割
・無回答……………1割
すなわち8割の教員が子供たちの国語力に危機感を感じているということです。

まだまだ内容は序盤ですが、ここから先は目次を見て、推測してください。興味があれば、ぜひご一読をお勧めします。


 

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