難解な文学作品や哲学書、経済学の本などをコミックにして理解しやすくするという手法は以前から多数試みられています。本書を含むシリーズの特徴は、NHKの人気番組「100分de名著」を下敷きに、それをコミック化しているところにあります。
ハイデガー(ハイデッガーとも表記されます)は20世紀ドイツの哲学者で、本を読んだことがない、その人となりを知らない人でも、どこかで名前だけは耳にしたことがあるはずです。
本書の原作である『存在と時間』は、ハイデガーの代表作で、難解なものが多い哲学書の中にあって、特に難解と言われる作品です。どんな内容のものなのかを一言で要約すると、「人間はどのように存在しているか」ですが、それだけ聞いてもよくわかりませんね。
そんな本がどのようにコミカライズされているのか。まずそこに興味が湧きますが、本書ではごく当たり前の商店街を舞台に、38歳のサラリーマンの男性を主人公に物語が展開します。
よくあるコミカライズでは「先生」的な立場の専門家が登場して、いろいろと教えてくれるのですが、本書では喫茶店の女性オーナーがその立場にいるため、説教臭さがありません。
第1章では、「もえぎ商店街」の外れにある「もえぎ広場」と、そこに立っている「オオグスさん」という大木が紹介されます。そして商店街の精肉店で主人公がコロッケとハムカツ、メンチを買っています。奥さんが急な残業で帰りが遅くなったので、娘と自分の夕食の調達です。
その娘が帰宅するなり、主人公にこう問いかけます。「お父さん、『私』って何だと思う?」
学校で、みんなと話しているときの自分と先生と話しているときの自分が「違う人みたい」に見えたという級友たちの話から、「私って何?」と考え始めたというのです。
帰宅した妻とそのことについて話し合ううちに、「要領がいい」ことで先生たちから気に入られ、そのことで友達からやっかまれているのではないかという心配が出てきました。
翌日、商店街の喫茶店「パレット」で、主人公は幼なじみの電気屋2代目と金物屋3代目に会います。夏祭りの盆踊りをどう運営するかという話です。その話の合間に、主人公は喫茶店オーナーのマリコに娘の話をします。
すると、マリコは「だったらこの本なんてどうかしら」とハイデガーの『存在と時間』を取り出します。「え? 哲学書」と戸惑う主人公。娘の問いは哲学的な問題なのかと気づきます。
そして、みんなと別れてから、主人公は再びパレットを訪れます。『存在と時間』について尋ねるためです。
そこでマリコは『存在と時間』の内容を説明します。「ハイデガーはこの本の中で『存在の意味とは何か?』という問いを中心に、それまでの哲学史をひっくり返すような議論を展開したの」
「まず彼はこう考えたわ。『存在とは何か』を明らかにするには、『存在の意味』を問わずにいられない『人間』に注目すべきだと」
「そして、人間の存在を分析すべき理由をこう述べたの。存在の意味を問うことは生きている人間にしかできない。だから人間を『現存在(ダーザイン)』と呼んで、どのように存在しているかを分析しようとしたわけ」
話し合いが進む中で主人公は「人間って自由な意思を持っているものじゃないんですか?」とマリコに問います。
マリコは「人間には過去や記憶があり、未来への期待や不安もあるわ。そこでハイデガーは存在を『時間』との関係の中で問い直そうと考えたの。抽象的な概念だけ使って考えても空論になってしまうから、『現存在』が日々の生活の中でどのように存在しているかを描き出し、分析を深めようとしたのよ」と答えます。
「ハイデガーはこの方法を『現象学』と呼んだのだけど、そこが『存在と時間』の画期的な点よ」とマリコは重ねて言います。
そして主人公に「なぜあなたは一度店を出た後で再び戻ってきたのか」と聞きます。主人公は「えーと、『俺ら哲学なんてガラじゃないよな~』って空気になったから……」と答えます。
「つまり、空気を読んだのね」とマリコは結論づけます。主人公は「はあ」と返事をします。
「あなただけじゃない。私たちは自然と空気を読んでしまう生き物よ。『みんながこうしているから』という社会通念に従って生きている」
「確かに、ボクは我が道を行くってタイプじゃないしなあ」
「『我が道を行く』タイプだって、『世人に飲みこまれている』と言えるのよ。世間に迎合せず『我が道を行く』と考えた時点で、『世間』的な価値観にとらわれているってことじゃないかしら」
「でも、空気を読むって悪いことじゃないですよね?」
「そうとも言い切れないわ。ハイデガーは『常に空気を読むことで生じる大きな問題点』を指摘しているの」
「大きな問題点?」「それは宿題にしましょう。自身で考えることも必要だから」
主人公は喫茶店を出て歩きながら考えます。「空気を読むことで、何か悪いことでもあるのかなあ」
ここで第1章は終わり、「ハイデガーってどんな人?」という少し長めのコラムが入ります。
第2章のタイトルは「いつの間にか加害者に……」です。日曜日に集会所で開かれた町内会の定例会の様子が描かれます。その帰りに友人たちと立ち寄ったパレットで、広場にスーパーを誘致しようという計画があり、オオグスさんが切られてしまうという話があることを聞かされます。
そして家に帰ると、妻から娘がいじめに遭っているという報告が。主人公はこう考えます。「それにしても昔から、いじめや仲間はずれってなくならないな。俺なら絶対、加害者にならないのに」
次の町内会の集会で、スーパー誘致の問題が議論になりました。いろいろな立場から賛否両論が飛び交う中、主人公はつい弾みで「ま、いいんじゃないかな」と答えてしまい、級友の1人を敵に回してしまいます。
オオグスさんが真っ赤な血を流している夢を見て飛び起きる主人公。「自分だけは加害者にならないと思っていたのに、友達を傷つけてしまった」と落ち込んでパレットに向かいます。
マリコは主人公に聞きます。「みんなに同調して、その輪の中にいれば安心できると思っていたの?」
それが前回マリコから出された宿題、「常に空気を読む事で起きる弊害」の答えであると気づいた主人公に対して、マリコはこう告げます。
「空気を読んで同調ばかりしていると、自分で考え判断する機会を失ってしまうわ。そこで生じる大きな問題が『責任の不在』よ。『みんながやっているから』が行動の規範になると、その責任を問われたとき、責任の所在が『私』から『みんな』へスライドしてしまうの」
「確かに!! 『自分だけが悪いんじゃない』となってしまう」
「そう。無責任な状態に陥ってしまうわ。これが他者への暴力と結びつくと大変よ。学校や職場で起きるいじめはその典型ね。攻撃対象を作り出すと『みんな』に一時的な連帯感が生まれる。そしてそこに加担している人は、自分の暴力性に無自覚になってしまうの」
「……本当は俺もオオグスさんが切られてしまうのは嫌なんです」
「じゃあ、みんなに同調することをやめてみたら? 誰にも同調せずに1人で人生を切り拓いていくところを想像してみて」
「なんとも心許ない気分です」
「それが『不安』の正体よ。『私』がこの世に存在しているというだけで、不安は生まれてくるの。人間は不安の源泉ね。だから人間は世人に従属しようとする。そこにいれば不安から目を背けることができるものね」
そう言って、マリコはハイデガーによる世人の生き方3タイプを説明します。それらをまとめてハイデガーは「頽落(たいらく)」と呼んでいるそうです。
・世間話
みんなが考えていることをみんなと同じように語る。空気を読んだコミュニケーションゆえに、内容は薄くなりがち。
・好奇心
みんなが何に関心を持っているかに常に振り回され、次から次へと関心が移っていく。そのため、ものごとをじっくり掘り下げて考えない。
・曖昧さ
世間話ばかりしつつ、まわりに合わせてころころ興味・関心を変えるので、自分自身の考えや立場がはっきり表明されることがない。
ここで第2章は終わり、第3章の「『本来的な生き方』を取り戻す!」に入ります。スーパー誘致の話を主人公から聞いた娘が行動を起こし、たくさんの嘆願書を提出してきました。
それをきっかけに大人たちも自分自身の考えを口にするようになり、オオグスさんを切らずにスーパーを建設する案がまとまりました。主人公たちはパレットに集まり、マリコから『存在と時間』に出会ったきっかけを聞きます。そこで「同調ばかりする人生から逃れるには、死に直面するしかない」という言葉と、ハイデガーの示したキーワードである「良心の呼び声」を与えられて物語は終わります。
難解な哲学書のマンガ版ですが、現代社会に蔓延している「同調圧力」の正体に気づくことができる本でもあります。ぜひ読んでみてください。