岸田首相が2022年10月3日の所信表明演説で、個人へのリスキリング支援として、人への投資に5年間で1兆円を投じると表明しました。そして10月12日の日経リスキリングサミットに登壇すると、企業支援、在職者支援などのリスキリング支援策を発表しました。
しかし日本社会全体を見ると、まだリスキリングに対する熱い動きが活発化しているとは言えない状況です。リスキリングが一般的な用語になり、誰もがその意義を理解するようになるまでには、もう少し時間がかかりそうです。
なぜ首相自らリスキリングの旗振りをしたかといえば、日本が世界に取り残されるのではないかという危機感からでしょう。古くから労働環境でのスキル獲得にOJTを活用してきた日本社会は、連続的な変化には強いものの、非連続的な変化を苦手にしてきました。
そのためDX(デジタルトランスフォーメーション)、GX(グリーントランスフォーメーション)といった大きな社会変換によって生まれる新しい仕事に、労働者が円滑に移行できないのではないかという危惧が叫ばれてきました。その対応策として注目されたのがリスキリングということです。
例によって日本社会がリスキリングという言葉に反応するようになったのは、英語圏から半年以上遅れています。Google検索で日本語の「リスキリング」が爆発的に検索されるようになったのは2021年2月ですが、英語圏では2020年5月にそれを上回る検索数がありました。そして、2020年10月以降は、さらにその数が5倍近くに増えています。
リスキリングのことを「デジタル技術に対応するための学び直し」と捉えている人も少なからずいますが、それは近視眼的な見方です。リスキリングとは「新しい職業に就くために、あるいは今の職業で必要とされるスキルの大幅な変化に適応するために必要なスキルを獲得すること」であって、例えば馬車の御者が自動車運転手になるためのエンジン整備の勉強もリスキリングです。
アメリカではAT&Tという会社が2008年にリスキリングの必要性に気づきました。「25万人の従業員のうち、未来の事業に必要なスキルを持つ人は半数に過ぎず、約10万人は10年後には存在しないであろうハードウェア関連の仕事のスキルしか持っていない」という事実に直面したのです。
そこで同社は2013年に「ワークフォース2020」というリスキリングプログラムをスタートさせました。2020年までに10億ドルを投じて10万人のリスキリングを実行し、現在も後継プログラムが続いています。
その結果、社内技術職の80%以上が社内異動によって充足され、リスキリングプログラムに参加した従業員は、そうでない人に対して1.7倍の昇進を実現し、1.6倍低い離職率となったということです。
前置きが長くなりましたが、本書は日本におけるリスキリングの第一人者である著者による初めての著書です。著者は1995年に早稲田大学を卒業後富士銀行に入行、営業、マーケティング、教育研修事業を担当しました。
その後ニューヨークに移住しましたが、あの9月11日、ワールドトレードセンタービルに突入する飛行機の姿を肉眼で目撃したそうです。翌日からグラウンドゼロの救済ボランティアに参加しました。
アメリカでグローバル人材育成を行うスタートアップを起業し、2,000人の卒業生を輩出して帰国。米国NPOの日本法人、米フィンテック企業の日本法人、通信ベンチャー、コンサルティング会社勤務を経て、日本初のリスキリングに特化した非営利団体「一般社団法人ジャパン・リスキリング・イニシアチブ」を設立、AIを利用してスキル可視化を可能にするリスキリングプラットフォーム「SkyHiveTechnologies」の日本代表に就任しています。
経歴を見ると華々しいエリートコースに見えるのですが、リスキリングという「天職」に辿り着く前には、泥沼の時代がありました。転職のために応募した100社に断られ、不眠症、パニック障害、うつ病を発症。自殺を考える日々を過ごしたそうです。
そんな著者が立ち直ったきっかけは、知人から自分のスキルを褒められたことでした。それ以来リスキリングの必要性に改めて気づき、コロナ禍でのピンチをオンライン会議で乗り切って今に至ります。今はリスキリングを広めることが自分の価値だと確信しているそうです。
それでは、本書の目次を紹介します。
・はじめに これからの時代を生き抜くために必要なリスキリング
・第1章 なぜリスキリングする必要があるのか
1 リスキリングとは
2 外部環境の変化
3 世界におけるリスキリング
4 日本におけるリスキリングの課題
・第2章 リスキリングする方法
1 「リスキリング」というスキル
2 ベテラン社員に効果的なリスキリング手法
3 会社員(大企業)編
4 会社員(中小企業)編
5 個人事業主、フリーランス編
6 産休・育休復帰支援編
・第3章 リスキリングを実践する10のプロセス
1 現状評価
2 マインドセットづくり
3 デジタルリテラシーの向上
4 キャリアプランニング
5 情報収集の仕組みづくり
6 学習開始
7 デジタルツールの活用
8 アウトプットに挑戦
9 学習履歴とスキル証明
10 新しいキャリア、仕事の選択
・第4章 リスキリングと「スキルベース採用」の時代の到来
1 海外企業が導入し始めている「スキルベース採用」への注目
2 スキルに関する最新トレンド
3 スキルの可視化(見える化)
4 プラットフォームを活用したスキルの可視化、リスキリングの方法
5 リスキリングに必須の「類似スキル」「隣接スキル」
6 消える仕事から成長する仕事へ配置転換
・第5章 リスキリングによるキャリアアップと人材の流動化
1 リスキリングとキャリアアップの関係
2 リスキリングによる成長事業への労働移動
3 リスキリング経験が自分の人材としての市場価値を高める
4 リスキリングは昇給・昇格をもたらす
5 リスキリングをしないとキャリアは今後どうなるか
・第6章 AIやロボットが同僚になる新たな時代に向けて
1 日本におけるリスキリングの浸透
2 AI、ロボットと人間の協働する時代
3 すべての人に必要なグリーン・リスキリング
4 リスキリングは永遠に終わらない旅
・おわりに 死を意識したどん底から這い上がる
・主な参考文献
それでは第1章から読んでみることにしましょう。4節の「日本におけるリスキリングの課題」では、いきなりこんな見出しが目に飛び込んできます。
「デジタル化に乗り遅れる日本~人材の知識レベルは世界47位~」
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IMDというスイスのビジネススクールが毎年発表している世界デジタル競争力ランキングにおいて、日本は毎年ランクを落とし続け、なんと2021年度は全世界で28位、アジア太平洋地域では14カ国・地域中9位、人材の知識レベルに至っては全世界で47位、完全にデジタル後進国という位置づけになっています。
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ちなみに総合順位のベスト3はアメリカ、香港、スウェーデンです。アジアではシンガポールが5位、台湾が8位につけています。また、次のような記述もあります。
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PwCが2021年に実施した「デジタル環境変化に関する意識調査」において、「職場に導入される新たなテクノロジーの活用に順応できる自信がどの程度ありますか?」という質問に対して、「とても自信がある」と回答した割合は、日本はなんと5%しかありませんでした。トップはインドで68%です。
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その内容を見てみると、「テクノロジーがもたらす自動化に不安を感じる」「自分にとってテクノロジーは機会よりも脅威」「学習機会が限定的で、順応できる自信がない」という意見が回答として出ています。
著者は「日本人は学ばない民族なのではなく、学ぶ目的やゴールを持ちづらい職場環境、学んだ結果良いことがある経験をしていない」といったことが障害になっていると考えています。
つまり「学ぶことでとても良いこと」も、「学ばないことでとても悪いこと」も起きにくいのが日本社会で、そのためにリスキリングの意識が高まらないのではないかということです。
さらに日本では、新しいスキルを身につけて実践する方法や、新しい職業に就くためのリスキリングについての議論がほとんどなく、「学び直し」「転職のための目的」といった間違った理解がなされています。
著者は「リスキリングは業務であり、隙間時間で学ぶものではない」と言っています。そして「個人の自主性に任せたリスキリングは失敗する」とも。なので「オンライン講座を会社で契約したので、好きなことを学んでください」というアプローチはうまくいかないということです。
第2章ではリスキリングの方法を解説しています。1節はリスキリングそのものについてを述べています。最初に「リスキリングに必要なスキルにはハードスキルとソフトスキルがある」という言葉が出てきます。
ハードスキルとは専門性が高く評価基準が明確で定量的なスキルです。たとえば英語などの外国語、弁護士・会計士などの資格が相当します。
ソフトスキルとは明確な評価基準が見えにくい定性的なスキルを指します。コミュニケーション能力、リーダーシップ、課題解決能力などのことです。
どのような新しいハードスキルを身につけるかという判断はソフトスキルによって行われますが、日本人はこのソフトスキルが磨かれていない人が多く、「自分は何をしたらいいかわからない」という状態になりがちです。
その理由は、日本の職場が会社の命令による配置転換に基づくものであったり、職場でのスキル習得がOJTによるものであったりする日本的な慣習があるため、みずから進んで自分のキャリアを構築してきた経験が薄いためです。
著者はポストコロナ時代に個人が求められる必須スキルとして、次の4つを挙げています。
1. リスキリング:スキルの再取得
2. アンラーニング:学習棄却(陳腐化した情報や知識をリセット)
3. アダプタビリティ:適応能力
4. プランニング:未来予測
この4つのスキルを上記の順番でぐるぐる回すことで、不確実で曖昧かつ複雑な時代に未来を創造していくことができるということです。
ただし、リスキリングの制度が期待できるのは大企業で、日本の産業のほとんどを占める中小企業や個人事業では、みずから進んでリスキリングを行っていくほかはありません。
そこで本書には、著者が経験してきたリスキリングの方法が列記されています。
・国や自治体の制度を利用
・無料セミナー/ウェビナーの利用
・勉強会への参加
・展示会への参加
・デジタル/IT部署で「鞄持ち」をやらせてもらう
・重要な専門用語はGoogleアラートで常に最新動向をアップデート
最終章では、著者がすべての人に必要なものとして「グリーン・リスキリング」を紹介しています。グリーンとついていることでわかるように、環境分野に関連するリスキリングです。
環境分野はデジタル化と同様に人材育成施策の欠如が叫ばれています。すでに欧州では「グリーンジョブ」「グリーンスキル」と呼ばれる雇用創出や人材育成に対する取り組みが始まっているそうです。
このグリーン・リスキリングには「攻め」と「守り」の2つの分野があり、それぞれ違う方向での人材育成が必要です。「攻め」は投資や新規事業の企画推進、「守り」はSDGsなどのゴールに対応しながら既存事業を守り変革を担うものです。
続くページには、著者が作成したマトリクスが載っています。タテに「建築」「不動産」「農業」「交通」「製造」「資源」「物流」という業界が、ヨコに「気候変動」「脱炭素」「代替食品」「水」「代替燃料」といった環境問題のカテゴリーが記されています。そのマトリクスの中身はまだ空です。中身を読者に埋めさせるという試みです。
デジタル化のDXでは大きく後れを取っていても、環境問題のGXではみんながスタートラインです。ですから、今取り組みを開始すれば、リーダーシップが取れるかもしれないということです。
そして次のリスキリング分野は宇宙ではないかと著者は言います。スペースのSをとってSXが新たな流行語になるかもしれません。本文の終わり近くには「これからの人類のさらなる進化にリスキリングは不可欠なスキルになるのです」と書かれています。