人が産まれて最初にすることは、産声とともに呼吸をすることです。それまでは母の胎内でへその緒から酸素を含んだ血液をもらっていたので、呼吸をする必要がありませんでした。母胎から切り離されて自活するための最初の作業が呼吸であるわけです。
そして人生の最期、人は「息を引き取り」この世に別れを告げます。一生を終える幕引きもまた呼吸です。
つまり呼吸は、生きることそのものと言えます。実際に、誰もが1日に2万回以上の呼吸を繰り返して生きています。一生ではなんと6億回以上の呼吸が必要になります。
呼吸を司る主要機関は「肺」です。かつて肺結核や肺炎が死病として恐れられた時代、肺を冒されて呼吸ができなくなることは、即、死を意味するということを人々はよく理解していたのでしょう。
医療技術の発達で、死に至る肺の疾患は肺がんくらいしか認識されていませんでしたが、先ごろのコロナ禍は再び、肺炎で命を失うことを人々に知らしめました。
冒頭でも述べましたが、肺は内臓器官の中で唯一、意識して動かすことのできる臓器です。呼吸のコントロールが肉体と精神を制御する入口であることを古人は知っていて、さまざまな修行に呼吸法を取り入れました。
大ヒットした『鬼滅の刃』では、必殺技として「○○の呼吸」というものが登場しました。誰もが知っている「呼吸」にまつわる言葉は、「息が合う」「あうんの呼吸」「息をのむ」「息が詰まる」「息もつかせず」などたくさんあります。
本書は、運動生理学の専門家が書いた、呼吸についての解説書です。著者は「まえがき」でこのように読者に語りかけています。
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呼吸を変えればこころやからだが変わることが古くから注目され、呼吸法はヨガや座禅、リラクセーションなど、「宗教」や「健康」とも結びつけられています。(中略)では、本当に呼吸法によって、こころやからだにいいことが起こるのでしょうか? そもそも、呼吸をしている時、体の中で何が起こっているのでしょうか? また、酸素はなぜ必要で、どのように体で使われているのでしょうか?
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この内容をわかりやすく展開したのが本書です。著者は1961年生まれの運動生理学者で、オックスフォード大学医学部生理学部門客員研究員や名古屋大学総合保険体育科学センター教授、名古屋大学大学院医学系研究科教授などを兼任している人物です。運動時の呼吸が専門で、学生相手にバドミントンやテニスも教えているそうです。
「まえがき」にはさらにこんなことが書いてあります。
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とても身近な呼吸ですが、実は、私たちが知らないことがたくさんあるのです。吸った酸素の7割は使われずに肺に戻ってくること、肺で呼吸するといいながら、実はまわりの筋が働いて受動的に行われていること、呼吸の影響で心拍が揺らいでいること……呼吸とからだやこころの関係には、知っていると役立つ話、おもしろい話が山ほどあります。
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それだけではなく、本書を読むことで呼吸について持っていた間違った知識を正すこともできるといいます。呼吸はさまざまな健康法やトレーニングに利用されていますが、その中には科学的に正しくないものも含まれています。本書を読むことでそういったものに惑わされず、正しい判断ができるようになるということです。
それでは本書の目次を紹介します。
・まえがき
・第1章 「呼吸」する時、体ではなにが起きているのか?
1.人はどのように酸素を取り込むのか
2.「呼吸」を行う驚異のメカニズム
3.呼吸のパラメーター
コラム1 新型コロナと呼吸
・第2章 体に酸素はなぜ必要なのか
1.ヘモグロビンと酸素飽和度
2.体には酸素がなぜ必要なのか?
3.息を止めるとなぜ苦しくなるのか?
コラム2 無呼吸と高酸素の影響
・第3章 持久運動での呼吸の動態とメカニズム
1.運動時の実際の呼吸と呼吸法
2.運動する時「呼吸」には何が起こるのか
コラム3 マスクをして運動するのはいいか、悪いか?
・第4章 スポーツと呼吸のいい関係
1.ヨガと呼吸
2.登山と呼吸
3.格闘技と呼吸
・第5章 呼吸と「こころ・からだ」のいい関係
1.呼吸とこころの健康
コラム4 呼吸で頭の働きをよくするには!?
2.呼吸とからだの健康
3.からだとこころの健康のために
・あとがき
それでは順を追って本書の内容を見ていくことにしましょう。
第1章は呼吸することで体に酸素を取り入れるメカニズムの解説です。呼吸が酸素を取り込み、二酸化炭素を排出する活動であることは誰でも知っていると思いますが、その先を正しく説明できる人はあまり多くありません。
たとえば、呼吸において最も重要な器官は何かと聞かれたら、多くの人は「肺」と答えますが、それは誤りです。
実は呼吸において重要な役割を果たす器官は、気道と肺胞だそうです。肺は気道の一部である気管支と肺胞を包むための大きな袋でしかないのです。
鼻や口から取り込まれた空気は、咽頭、喉頭を経て気管に送り込まれます。喉頭には食道と気管を分ける喉頭蓋という分岐装置があり、これがうまく働かないと、高齢者にとって命取りの誤嚥性肺炎を起こします。
気管はその先で2本に分かれ気管支となります。そこから左右の肺に進んで23~25回も枝分かれし、袋状の肺胞につながります。ここまでが気道と呼ばれる部分です。
気道は呼気と吸気の両方が通る経路です。複線ではないので息を吸っている間は息を吐くことができません。そのため吸った空気の一部は、肺胞に届くことなく吐き出されてしまいます。それは一見効率が悪そうですが、吸った空気を温めたり、湿度を加えたり、細菌等の異物を追い出したりするために必要なことだそうです。
気道の先にある肺胞は、ガス交換を行う重要な部位です。気管支の先にブドウの房のようにかたまっていて、肺全体に3億~5億個も存在しています。その表面積を合計すると70~100平方メートルとなり、テニスコート半面分という広さです。
肺胞の表面には肺毛細血管が網の目のように張り巡らされていて、ここで酸素が血液中に取り込まれ、二酸化炭素が肺胞に戻されます。このガス交換は安静時で0.8秒以内、激しい運動時で0.25秒という短時間で行われます。
肺胞と肺毛細血管は間質と呼ばれる柔らかい物質で隔てられており、呼吸によって肺胞がふくらむと、間質が移動して肺胞と肺毛細血管が接触します。このときにガス交換が行われます。肺炎などで間質が変化して固くなると、これがうまくいかなくなり、呼吸困難を起こします。
呼吸において肺が重要な器官でないというのは、肺は単なる袋であって呼吸を主導していないためです。呼吸運動は呼吸筋と呼ばれる横隔膜と肋骨の間にある肋間筋によって行われます。運動時などでは肩の筋肉や腹筋もアシストに加わります。
第2章では、ガス交換の仕組みと、それによって取り込まれた酸素が体内でどのように利用されるかをくわしく解説しています。ここで「酸素飽和度」という言葉が出てきますが、これはコロナ禍でよく見かけたものです。
酸素飽和度とは、血中のヘモグロビンの何%が酸素と結びついているかを示した数値です。コロナ禍で有名になったパルスオキシメーターという測定器で簡単に測ることができます。
正常な肺機能の人の場合、酸素飽和度は96~99%です。90%以下になると酸素吸入が必要と判断されます。
呼吸が適切にできなくなると息苦しさを感じますが、これは肺や肺胞、気道などに感覚器があるわけではありません。二酸化炭素が溜まって排出が必要なのに、それがうまくできていないということを脳が察知して呼吸困難感を引き起こすからです。
第3章をとばして第4章では、スポーツと呼吸の関係が論じられています。その1番目はヨガです。ヨガは紀元前の古代インドに始まった静的な瞑想を主とした宗教的行為で、精神を統一し、心の働きを止め、輪廻からの解脱を目指すものが原型です。
その後、仏教やヒンズー教をはじめ、さまざまな宗教の修行法として広まりました。日本の仏教における座禅や念仏もヨガの影響を受けているといいます。
1990年代後半から広まったエクササイズとしての現代ヨガは、宗教性をなくし、ポーズに重点を置いたものです。ここでも呼吸は心身を制御する方法として重要視されています。
ヨガの呼吸の基本は、鼻呼吸をゆっくり深く行うことです。主に腹式呼吸を行いますが、熟練者になると1分間に1回の呼吸が可能になるといいます。
ヨガの呼吸は副交感神経を優位にして血行を良くし、精神統一に有効です。ただし、よく宣伝文句で見かける「全身に酸素を行き渡らせる」は科学的には疑問です。またダイエットに効果があるというのも「?」だそうです。
ヨガの効果として明らかなのは、マインドフルネス瞑想です。精神的落ち着きやリラックス、集中力の向上、ストレスや痛みの軽減などが起こるとされています。うつ状態が改善されたという報告もあるそうです。
最終章の第5章では、呼吸と心身の関係を述べています。ヨガの効果でも明らかなように、呼吸と気分や感情には密接な関係があります。気分や感情で呼吸が変わりますし、呼吸を変えることで気分や感情もある程度コントロールすることができます。
また、心拍は意識して変えることはできませんが、呼吸によって心拍数に変化が起きることは明らかになっているので、呼吸をコントロールすることで心拍数も間接的に制御できることになります。
世間でリラックス効果をうたっているトレーニングは、みなゆっくり呼吸を推奨しています。ゆっくり呼吸をすることでストレスをなくし、リラクセーションを図ることができるからです。昔から言われている「深呼吸」の効果です。
ゆっくり呼吸は副交感神経を優位にするため、免疫機能を高め、病気になりにくい状態を保持します。まだ科学的エビデンスは多くありませんが、適度な運動とあわせてゆっくり呼吸を行うことが健康への道であるといえそうです。
ただし、いくら呼吸法に注目しても、運動を怠ってはいけないと著者は言います。健康のための第1選択肢は運動であり、呼吸はその次に位置するものだからです。ただし、いきなり運動を始めると怪我をしたり、三日坊主になったりします。そのために、まずは呼吸法で自分の体に意識を向かわせ、それから適切な運動を始めるのがいいそうです。
最後の結論として、「鼻吸気、呼気長めのゆっくり呼吸」を著者は勧めています。呼吸法には道具も場所も必要ありません。今すぐ始めて健康を身につけたいものです。