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葬式消滅 お墓も戒名もいらない

島田裕巳・著/ジー・ビー・刊

1,584円(キンドル版・税込)/1,760円(紙版・税込)

出版社名にあまりなじみがないと感じられるかもしれませんが、ジー・ビーという出版社はもともと編集プロダクションとして出版社の下請けで編集制作を営んでいた会社です。

独自の出版を始めたのは2002年で、記念すべき出版物第1号は社名の由来でもある「ギャグ・バンク」というムックです。「編集者が作りたいものを詰め込んだ」という触れ込みの意欲作でした。

現在は編集プロダクション業務と独自出版、自費出版や社史制作などを並行して行い、海外の版権を獲得するためのロンドン支社も持っています。大手総合出版社とはまったく違う、独自の歩みを続けている出版社です。

著者の島田裕巳氏は宗教学者で作家。東大文学部、東大大学院博士課程で宗教学を学び、日本女子大教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員、同客員研究員を歴任してきました。

現代における宗教現象、新宗教運動、世界の宗教、葬式を中心とした冠婚葬祭など、宗教現象についての幅広いフィールドを持ち、『サクッとわかるビジネス教養 宗教と世界』(新星出版社)、『完全版 創価学会』(新潮新書)、『教養として学んでおきたい仏教』(マイナビ新書)、『0葬―あっさり死ぬ』(集英社文庫)などの著書があります。

本書は、冒頭の挨拶にも書きましたが、現代日本の葬祭業界に押し寄せている大きな潮流である「葬儀のコンパクト化」について、いろいろな角度から考察したものです。出版社は本書の概要を次のように紹介しています。

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自然葬、海洋葬を実際に行ない、葬送の自由を進めてきた著者が、現在、そしてこれからの葬儀のカタチを紹介。直葬(じきそう/ちょくそう)などの登場でお葬式はますます簡素で小さくなってきました。見送る遺族はお骨を持ち帰らないという葬儀もいよいよ出現。高額な戒名も不要、お墓も不要となってきた新しい時代のお見送りの作法や供養の方法などこれからの時代を見据えた情報を宗教学者が教えます。***

では早速、目次を紹介していきましょう。内容を詳しくお伝えするために、章と見出しをすべて掲載します。

・はじめに
・第一章 葬式が消滅していく
葬式の基本は死者を悼んで遺体を処理すること
土葬から火葬へ、葬る方法も変化する
極楽往生に導くためのお葬式
輪廻転生から浄土教信仰、そして葬式の完成
長く残り続ける寺と檀家の関係

・第二章 なぜ葬式は消滅するのか
ビジネスとしてはじまった仏教式の葬式
あまりに高騰し過ぎた戒名料
仏教の葬式はどのように変化したのか?
仏教式葬式の原型となった曹洞宗の葬式

・第三章 お弔いが葬儀社依存になった理由
お布施はそもそも困窮者のため
明治以降大きく変わった日本のお寺
かつて葬送とはどんなものだったのか
変貌してきた葬式のカタチ

・第四章 江戸時代の寺請制度はなぜ今に影響するのか
仏教式の葬式が不要と思う本当の理由
葬式が仏教式となった歴史的理由
管理された江戸時代の仏教
仏教を排斥する廃仏毀釈の明治時代
仏教式が重要とされた家制度
ようやく葬式から解放される時代になった

・第五章 現代の葬式が抱える数々の矛盾
弔うことの本当の意味
相互扶助的な側面があったお葬式
葬式の本質がわかる業者の利益
仕切りが業者であることの違和感
過剰な演出が増えてきた葬送の儀式
そもそも弔いはどこからはじまったのか
仏教式の葬儀は釈迦に遡るものではない

・第六章 余計なものは次々と省かれていく
こころのケア化してきたお葬式
現世での暮らしを長く享受できる時代へ
追善供養は必要がなくなった
仏教は生前に悟りを開く事が重要
戒名料の考え方が変化した現代

・第七章 死生観の変容――死は昔ほど重要ではない
実は「多死社会」が到来している
亡くなったことが伝わらなくなった
「死の高齢化」で状況が変化した
死が曖昧になってきた現代

・第八章 家族葬から家庭葬へ
定着してきた新しい流れ
葬儀は費用が明記されている商品に
ますます縮小するお葬式
家から個人に変化している社会
戦後に起こった新宗教の台頭
故郷を喪失した人々の行き先

・第九章 墓はすっかり時代遅れになった
消えていく「墓」の未来
「家」そのものが崩壊しはじめている
無縁墓がますます増えていく
東西日本で異なる遺骨とのかかわり
「納骨堂」に納め供養をする

・第十章 これから葬式はどうなっていくのか
葬式は簡略化され墓は不要になるのか
コロナ禍以降、溶解した葬式は復活するか
寺の経済を真剣に見直す時代
「死」の概念も変質する近未来

・第十一章 今、葬式をどう考えればいいのか
大きく様変わりした都市部の葬式
母の死によって現代の典型的な葬式を経験する
遺体と数日を過ごした後、火葬までの実際
・おわりに

通常は巻頭から順にページをめくっていくのですが、今回はいきなり最終章から見ていくことにします。そこには著者が実母の死から火葬までの体験が綴られています。

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私は、この本の執筆をしている最中に母を亡くしました。母は九三歳でした。父の方は一五年ほど前に八六歳で亡くなっています。喧嘩する姿を見たことがないほど仲の良い夫婦でしたが、今頃はあの世で久しぶりの再会を喜んでいることでしょう。
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父の場合には交際範囲が広く、亡くなった時点で葬式に参列してくれる大学の同級生もいたので、今でいう一般葬で送りました。母の場合にはもともと交際範囲は狭く、兄弟姉妹のうち、一番下の弟しか残されていないので、一般葬や家族葬を行うことはありませんでした。家庭葬さえ行わず、火葬場に直行する直葬で送ることになりました。
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著者のお母さんは膵臓がんでした。一時は入院しましたが、最期は自宅でということになり、著者と介護をしていた妹さんに看取られて亡くなりました。

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その場に医師はいなかったので、それから連絡し、医師に来てもらいました。(中略)私にはたまたま知り合いの葬儀社の人間がいたので、その人物に連絡し、葬儀のことはすべて任せることにしました。
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母の場合、亡くなったのは火曜日で、火葬したのは土曜日でした。その間、遺体は自宅におかれたままでした。葬儀社に湯灌をしてもらい、化粧も施してもらっていますから、ただ眠っているような姿でした。(中略)そうした状態のなか、家族や親族が訪れてきました。それが通夜の代わりで、通夜も個別化したと言えるかもしれません。
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昔は亡くなるとすぐにお通夜、告別式、火葬だったのですが、現在は火葬場が混んでいることもあり、亡くなってから火葬までに日が開くことが珍しくありません。著者のお母さんと同居していた家族は、リビングに安置されている遺体とともに数日間を過ごしました。

著者はその時間をこう説明しています。「リビングに安置されている間に、亡くなったという事実がじんわりと家族に受け入れられていった。その点では、このシチュエーション自体に儀式性があったとも言えます」

著者のお母さんの遺体は火葬され、遺骨になって戻ってきました。本書にはまだ納骨をしていないが、いずれ島田家の墓に埋葬されることになると書いてあります。その場合、当然のように檀家寺の僧侶を呼んでお経を唱えてもらうのでしょう。戒名をどうするのかは本書には書かれていません。

葬儀のコンパクト化は止めようのない時代の流れで、それに伴って墓じまい、檀家じまいが話題になってきました。コミュニティ全体での死者との別れの儀式であった葬儀が、家族単位での遺体処理プロセスに変容してきたからです。

巻頭に戻ると、「はじめに」で著者はこのように言っています。
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もう何年も葬式に参列したことがない。そんな方は少なくないはずです。私も、最近母を亡くしましたが、それまでの数年、葬式に参列したことがありませんでした。私も六〇代半ばを超えましたから、同世代で亡くなる知人、友人も増えてきています。しかし、そうした人たちの葬式に呼ばれることはありません。
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著者の実感として、友人、知人の死を知るのは、喪中ハガキを受け取った時であることが最も多いとのことです。死を告知しないのは、葬儀が簡略化されたことと無縁ではないでしょう。最近の新聞記事でも、有名人の死亡記事で「葬儀は家族で既に済ませた」といった記載が多いことに気づいている方は多いはずです。

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この本を出すひとつのきっかけになったのは、葬式のやり方がかなり変わってきたと感じるようになっていたからです。その頃、「家族葬」という言葉が定着するようになりました。また、「直葬」という言葉も聞くようになっていました。
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家族だけで行うコンパクトな葬儀のことを、昔は「密葬」と言いました。しかし密葬の場合はその後で「本葬」と呼ばれる本格的な葬儀が行われることが前提としてありました。ところが今の家族葬の場合は、「偲ぶ会」が開かれることはあっても、本葬は行われません。

そして通夜と告別式を1日で済ませる「一日葬」が普及し、家族葬はさらに人数の少ない「家庭葬」になりつつあります。いずれは直葬が標準的な葬儀のスタイルになるかもしれません。

ここまで葬儀の形式が急速に変化することは、著者自身も予測していなかったといいます。せいぜい2030年以降のことになるだろうと、著者は以前の著書に書いています。しかし、変化は前倒しされました。その要因は間違いなくコロナ禍でしょう。

辞書で「葬式」を引くと、死者を悼んで遺体を弔うことと説明されています。そこには、葬儀社や寺院、墓石店、生花店、ギフトショップ、葬祭会館などが関与する葬儀ビジネスのことは書かれていません。

つまり、今起きている葬儀の変化は、本質的な意義ではなくビジネスモデルにおける新潮流と捉えることができます。伝統的なビジネスモデルが社会の変化によって淘汰され、新しいものに変わっていく渦中にある。本書を読めば、そういう背景が見えてきます。だとすれば、これは葬祭業界をモデルケースにした社会経済書であると見ることもできるでしょう。

著者は葬儀のコンパクト化が葬式仏教の消滅につながると予測しています。少子化の影響や地方の過疎化で「墓じまい」が話題になりますが、直葬、戒名なし、墓地なしが当たり前になれば、法事も行われなくなり、葬儀をビジネスにしてきた寺院は維持が難しくなるからです。

著者によれば、釈迦が開いた仏教には本来、葬儀という概念がなかったといいます。お寺が葬儀を担当するようになったのは、そう古いことではないそうです。そして土葬から火葬、地域コミュニティによる葬儀から葬祭業者による会館葬という変化を経て、現在の葬祭ビジネスが定着しているわけです。

葬式仏教は、封建制度での権力者に庇護されていた寺院が存続するためのビジネスモデルでした。江戸時代に始まった寺請制度が寺院と檀家の関係を作り、葬儀、戒名、法事、墓地という形でサービスの提供者である寺院と顧客である檀家が経済的につながってきたわけです。

しかし時代が変わり、「墓が寺に人質にされている」と感じる人が増えるにつれて、「墓じまい」がおおっぴらに語られるようになりました。存続の危機をひしひしと感じているお寺も少なくないはずです。

著者は宗教学者らしく、こう言っています。
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仏教が葬式仏教から脱して、現代に蘇ることはできるのでしょうか。それは、葬式と縁を切ったとして、仏教に意味があるのかと言い換えることができます。仏教の根本は、悟りということにあります。(中略)悟りの探求は、完成したわけではありません。究極の答えが見出されたわけではないのです。それは、新たな探求に意味があるということです。これからの仏教は、ふたたび釈迦の悟りとは何かを問うものになっていくのではないでしょうか。
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世の中の移り変わりに対応して、既得権者たちがどう生きなければならないかを問う一冊です。


 

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