言語学者や日本語の専門家が書いた敬語の本は山のようにありますが、退屈な文法の話が出てきたり、用例が日常生活とかけ離れていたりして、役に立つものは少ないようです。
その点、本書が人気なのは、著者が学者でも専門家でもない、敬語マニアのコピーライターだからでしょうか。京都在住の女性コピーライターであるところも人気の原因のひとつかもしれません。
著者は「はじめに」でこう言っています。
***
言葉は人と人をつなぐ糸。ちょっとした違和感があれば、その言葉を解きほぐし、紡ぎ直します。大切なのは、正しさ以上に「ほどのよさ」。盛りすぎないほどよい敬語を生かせたら、目の前にいる相手を大事に思う気持ちを率直にさりげなく表せます。ビジネスにおいても、ごまかしのない本質を捉えた会話が成り立つでしょう。「この人とまた会いたい」「こんな人に仕事を頼みたい」と思われたり、ふとした瞬間に心地よい空気が流れたり……盛りすぎないからこその誠実さと潔さがもたらす恩恵です。
***
本書では、敬語の間違いを指摘するというよりも、「盛りすぎ」に警鐘を鳴らすスタンスで世の中にあふれる敬語の誤用を槍玉に挙げていきます。そして、なぜ敬語を盛りすぎてしまうのか、その背景についても触れていきます。
それでは、目次を紹介していきましょう。
・はじめに
・1章 その敬語、盛りすぎです
・2章 その敬語、へりくだりすぎです
・3章 その敬語、失礼すぎです
・4章 その敬語、流されすぎです
すごくシンプルな目次だと思われたかもしれませんが、各章の中見出しはすべて盛りすぎ敬語の実例になっていて、それを書き出すとちょっと引用の範囲を超えてしまいそうです。
各章の意味については、各章扉のコピーを見ると一目瞭然です。
1章 その敬語、盛りすぎです
炎上や誹謗中傷を恐れるあまり、
敬語が大盛りになっていない?
バカ丁寧で過剰な敬語が今日も増殖中
2章 その敬語、へりくだりすぎです
せっかくの低姿勢も行きすぎると不適切だったり
慇懃無礼だったりと逆効果
3章 その敬語、失礼すぎです
身内や物を高めたり、丁寧に見えて実は横柄だったり
誤った使い方や見当違いがかえって失礼になることも
4章 その敬語、流されすぎです
言葉は生き物、移りゆくもの。
そしてか弱く、頼りなきもの。
周りが使っているからと流されすぎるのは考えもの
では1章から順に見ていくことにしましょう。
著者が「盛りすぎ」と指摘する「バカ丁寧で過剰な敬語」の最初に登場するのは、「ご予約様、入られました」という飲食店での店員のひと言です。
著者は最初、次のように考えました。
「ご予約の○○様が入られました」で他の来店客に個人名がばれてしまわないように?
「予約客が入ってきたよ。ぶつからないよう気をつけて」と他のスタッフに注意を喚起するため?
他のスタッフにも予約客への「いらっしゃいませ」を促すため?
結局、著者が推理した3番目の予想が当たっていたようでした。店内のあちこちから「いらっしゃいませ!」という元気な声が返ってきたからです。
それでも、この用法は間違いです。無生物で無形の「予約」にいくら「様」を盛っても、最上のおもてなしにはなりえないからです。
なぜ、「お客様が来られました」「お客様がお見えです」「お客様、ご案内いたします」ではいけないのかと、著者は首をひねるのでした。
次の用例は「プリンターがお壊れになった」ですが、これは明らかに盛りすぎの誤用なので飛ばして3番目の用例に移ります。
「おっしゃられてください」
これは単独で書くと明らかな二重敬語ですが、話し言葉の中では時々出てくることがあります。
「お気付きのことがございましたら、何なりとおっしゃられてください」
と言われて、一瞬「?」と思いながらも流してしまうことが多いのではないでしょうか。
著者の解説によると、これは明らかに二重敬語だそうです。
***
「言う」を「おっしゃる」と尊敬語にし、さらに「れる」を加えて尊敬語にした二重敬語です。
***
ところで、「お召し上がりになる」はどうでしょうか。これは「二重敬語の例外」で誤用ではないそうです。「食べる」の尊敬語である「召し上がる」は元の語とまったく別の形になっていて、こういうものは「特定形」と呼ばれて、「お~なる」をつけて二重敬語の形になっても、「習慣として定着している」のであればOKとなるのだそうです。敬語の世界は奥が深いですね。
次は丁寧語「ます」の使い過ぎです。
「本日お見えになります方は、お知り合いでいらっしゃいますか」の用例は、書いてしまうと誤用とはっきりわかりますが、話し言葉の中で使われると流してしまいがちです。ほかにもこんな例があります。
「これに懲りませずに」
「改めまして」
「ご多忙にもかかわりませず」
「重ねましてお礼申し上げます」
「差し当たりましてご意見を伺います」
「したがいまして今後の教訓といたします」
「取り急ぎまして申し上げます」
聞いたこと、使ってしまったことがあるのではないでしょうか。
続いて2章に入ります。2章のトップは「頑張らせていただきます」です。
この用例には流れがあって、「見積もりの額、もうちょとだけ何とかなりませんか」と言われての返事が「ご希望に添えるよう頑張らせていただきます」となっています。こういう応答は、よく耳にするのではないかと思います。
「させていただく」は許可を得て行うと見立てて使う謙譲表現なので、「頑張らせていただきます」は相手から頑張ることを無理強いされていることになります。
さらに著者はこう付け加えています。
***
何よりも「頑張る」という高位は、自身の強い意志によるもの。文法云々ではなく、こうした内面に関する言葉は直接の敬語にはなりにくいのです。さらに、他人の許可を得ることでもないため、「させていただく」という言葉とはなじみません。
***
この場合は、「ご希望に添えるよう、精一杯努力いたします」「ご希望に添えるよう頑張ります」と言えばいいわけです。
次の用例は「退院させていただきました」です。
「おかげさまで順調に回復しまして、昨日退院させていただきました」だと、日常的によく耳にする言い回しです。
しかしこれは「盛りすぎ敬語」なのだそうです。
なぜなら、「させていただく」は「相手の指示を頂戴しているという卑下した形で自分の動作を謙遜した言い方」だからです。退院を許可したのは主治医で、この会話の聞き手が許可したわけではありません。だからこの場合は、
「退院いたしました」が正解となります。
著者は「させていただく」を「へりくだりすぎ表現の代表格」と指摘します。しかし、次の場合はダメとは言いきれないそうです。
・目上の人が集まる会などを途中で退席する場面
「恐縮ですが、ここで失礼させていただきます」
・結婚式の出欠に返信ハガキで答える場面
「出席させていただきます」
いずれも許可は不要ですが、許可を得てそうすると見立てているからです。
同じように著者が「盛りすぎ言葉」の代表格とするのが「いただく」「頂戴する」です。
「お名前を頂戴できますか」という誤用に対して著者は、
「ダメです、嫌です、『お名前』はさしあげられません」と心の中で対応しています。
著者は「敬語で混乱したら、元の言葉に戻すのが基本」と教えてくれています。それに従って「お名前を頂戴できますか」を変換すると、「名前をもらえるか」になります。その時点で、明らかに誤用とわかります。
「お名前を教えていただけますか」で十分なはずです。
しかし現実には「お電話番号を頂戴できますか」「ご住所をいただけますか」という言い方が幅を利かせています。名前を記入してほしい時には「こちらにお書き願えますか」「こちらにご記入いただけますか」と言えばいいのです。
ただし、「こちらにご記入いただいてもよろしいですか」は丁寧なようで誤りです。相手に許可を求める言い方になってしまっているので、違和感を与えます。
3章では「失礼な敬語」が登場します。丁寧な言葉づかいをするつもりが、失礼な印象を与えるのでは逆効果ですね。
最初の例は「ちょっと入らせていただきます」です。
「させていただく」は「許可は不要なのに許可を得てそうすると見立てている言葉」です。なので「ちょっと入らせていただけますか」なら不自然ではありませんが、「入らせていただきます」と言うと許可を得ずに強行する印象になります。
「来週の月曜日、休ませていただけないでしょうか」
「来週の月曜日、休ませていただきます」
「来月いっぱいで、退職させていただけないでしょうか」
「来月いっぱいで、退職させていただきます」
上下の文を比較してみると、ニュアンスの違いが明らかになるはずです。
次は「お連れしました」です。一見丁寧な言葉づかいのようですが、「連行する」という感覚があるため、該当人物はあまりいい気持ちにはならないでしょう。
「ご案内しました」とするのが正解です。
続いて「レシート、ご利用されますか」というレジ係の人の言葉です。
著者によると、これは「エセ尊敬語」で完全な誤用だそうです。
「ご持参されてください」「ご卒業されました」も同様の間違い表現です。
「レシートはご利用なさいますか」が正しい表現です。
本書に出てくる例は過剰に言葉を飾った誤用が多いのですが、言葉の不足による誤用もあります。
「この投稿を拡散ください」
「詳細は下記より確認ください」
「要項については下記を参照ください」
などは、「ご」が抜けているために誤用となっています。「ご」が付けば尊敬表現になるところを、省略しているために敬語ではなくなっているわけです。
「お求めやすいお値段」の「お求めやすい」は「敬語もどき」です。正しい表現は「お求めになりやすい」なのですが、誤用がスーパーやデパートで大流行しています。
最後の4章は世間に定着している誤用をとりあげています。
「こちらが焼き魚定食になります」は、よく聞く言い方ですが、「なります」の用法が誤っています。「なります」の正しい用法は次の例です。
・雪が溶けると水になります
・脱税は犯罪になります
・お会計は880円になります
・ここからの眺めは実に絵になります
「ご注文の品はお揃いになりましたでしょうか」という言葉づかいも、よくファミレスなどで耳にします。「お揃いになる」は「揃う」の尊敬語なので、この言い方だと料理を立てている言い方になります。「ご注文の品は揃いましたでしょうか」「ご注文の品は、以上でよろしいでしょうか」とすべきです。
「こちらからはご乗車できません」という駅での案内も誤用です。「ご乗車になれません」が正解です。元の形「乗車する」、尊敬語「ご乗車になる」、可能形「ご乗車になれる」とたどっていけば、誤用が防げます。
「してもらっていいですか」もテレビの中だけでなく、街中でおなじみになってしまっている表現ですが、誤用が目立ちます。本来は相手に何かをしてもらいたい場面で許諾を求める時に使うものですが、現代では依頼の表現に変わっています。
スーパーやコンビニのレジで聞かれる「袋は大丈夫ですか」も、よく考えると客を悩ませる表現です。「袋はご入り用ですか」と聞くべきですが、マニュアルにそう書かれているのかもしれません。逆に、外国人客には結構通じるそうです。
以上、ざっと概観しましたが、肩の凝らない日本語のエッセイ風読み物として、気軽に読んでみてはいかがでしょうか。