著者の山口栄一氏は1955年福岡市生まれの物理学者、イノベーション政策学者です。東京大学理学部物理学科卒の理学博士で、米国ノートルダム大学客員研究員、NTT基礎研究所主幹研究員、フランスIMRA Europe招聘研究員、21世紀政策研究所主幹研究員、同志社大学教授、英国ケンブリッジ大学クレアホール客員フェローなどを歴任した後、現在は京都大学名誉教授、京都大学産官学連携本部特任教授、立命館大学招聘客員教授の肩書を持っています。専攻はイノベーション理論、物性物理学です。
本書の他に著書は『試験管の中の太陽 常温核融合に挑む』(講談社)、『イノベーション 破壊と共鳴』(NTT出版)、『死ぬまでに学びたい5つの物理学』(筑摩選書)、『物理学者の墓を訪ねる ひらめきの秘密を求めて』(日経BP社)があります。編著書は『JR福知山線事故の本質 企業の社会的責任を科学から捉える』(NTT出版)、『FUKUSHIMAレポート―原発事故の本質』(日経BPコンサルティング)、『イノベーション政策の科学 SBIRの評価と未来産業の創造』(東京大学出版会)です。
本書には「はじめに」はありませんが、「おわりに」に本書の提言がまとめられていますので、最初にそちらを紹介しておきます。
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日本は、1990年代後半に起きた中央研究所の終焉の後、新しいイノベーション・モデルを見つけられないまま、今に至っている。しかも産業競争力を下支えする科学分野が収縮しており、根源的に危機的状況にある。
(中略)
土壌を切り捨てることにより「贅肉を切り落とそうとして誤って脳みそを切り落としてしまった」日本では、創造的な若者たちが創造の場を失って、ワーキングプアに成り果ててしまった。
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しかし著者は、日本にはまだ復活の目があると考えています。
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10年後の未来は、現在の土壌の中からしか生まれない。とはいえ、事態は待ったなしで、大企業中央研究所モデルに回帰する余裕はもうない。技術インテリジェンス(土壌の中にどのようなパラダイム破壊が進行しているのかの探索)をする探索型研究組織を創り、かつ企業の垣根を取り去って、技術の目利き、すなわちイノベーション・ソムリエを備えることだ。見出されていないものの、パラダイム破壊の能力を有する日本のベンチャー企業は確かにある。
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これで本書の方向性がある程度予測できると思います。それでは目次を見てみましょう。
・序章 沈みゆく日本を救え
1 イノベーションを生み出せなくなった日本企業
2 どうすればイノベーションは復活するか
・第一章 シャープの危機はなぜ起きたのか
1 危機の構造――「山登りのワナ」
2 危機からの脱出策
・第二章 なぜ米国は成功し、日本は失敗したか
1 日米の違いはどこに?
2 SBIRとは何か
3 日本の制度的失敗
・第三章 イノベーションはいかにして生まれるか
1 創発―科学の本質に迫る
2 共鳴と回遊
3 パラダイム持続型イノベーションからの脱却へ
・第四章 科学と社会を共鳴させる
1 トランス・サイエンスとは何か
2 象徴的な二つの事故
3 なぜ組織の科学的思考は失われるのか
・第五章 イノベーションを生む社会システム
1 共鳴場を再構築する
2 大学・企業の制度改革
3 誰もが科学する社会へ
・おわりに
・あとがき
・参考文献
・事項索引
・人名索引
序章では、現在の日本が置かれている状況について、悲観論に傾くわけでもなく、楽観論に与するわけでもない、公正な見方で解説しています。
著者は「日本の科学が危機に瀕している」と警鐘を鳴らします。巷には「日本人のノーベル賞受賞者は、特に自然科学について米国に次いで世界第2位」という楽観論もありますが、著者は「ノーベル賞は20年以上前の研究成果に基づくもの」と、これを切り捨てます。
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なかでも今世紀に入ってから、日本のお家芸だった半導体や携帯電話をはじめとするエレクトロニクス産業の国際競争力は急落し、その生産額は最盛期の2000年から半減した。21世紀のサイエンス型産業の頂点に位置する医薬品産業も、日本は2000年初頭に国際競争から脱落してしまった。このことはとりもなおさず、日本のハイテク企業からイノベーションが生まれなくなったことを意味する。
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どうしてそうなったかについて、著者は短い言葉で断言しています。
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進展するグローバリゼーションの中で日本社会は旧来の産業モデルに固執して、時代に即したイノベーション・モデルを見出せないまま、周回遅れで世界から取り残されている。日本はリスクに挑戦する力を失い、研究・開発で創造してきた多くの新技術を経済価値に変えることに失敗したのである。
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そのような日本における科学の危機が生んだ悲劇が、あの3.11の事故だといいます。
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科学の危機は日本の産業競争力の低下にとどまらない。2011年3月に起きた東京電力福島第一原子力発電所の過酷事故は、技術企業の経営に科学的な思考が欠落しているという事実を一気に露呈させた。事故の根源を探ると、寡占・独占企業におけるイノベーションの不在に行き当たる。
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ではなぜ技術立国・日本からイノベーションが失われてしまったのでしょうか。著者は制度的・構造的な要因があるといいます。そして、その詳細を突き止め、日本再興への処方箋を示すのが本書の役割であると語っています。
かつて日本を牽引していたのは、大企業の中央研究所でした。ところが著者が海外での研究を終えて帰国した1998年、それらの研究所が次々と閉鎖されてしまったのです。
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98年、日本に帰国したとき、私は愕然とした。エレクトロニクス産業のみならず医薬品産業の大企業までが、その「中央研究所」を次々に閉鎖・縮小し、そこで働く優秀な科学者・技術者たちが配置転換を余儀なくされようとしていたからだ。いわゆる「大企業中央研究所の時代の終焉」と呼ばれる現象である。「中央研究所」とは、それぞれの企業で呼び方が違うものの、科学研究(基礎研究)を主たる業務とする企業の大部門のことである。
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それまで、日本企業の中央研究所は、最先端の研究をもとに数多くの技術革新を生みだしてきていました。当時の日本では国全体の研究費の8割が民間企業によるものでした。大学の研究はイノベーションにほとんど寄与せず、企業の研究こそがイノベーションのエンジンだったわけです。
ところが、90年代後半になると、日本企業は研究から手を引くようになりました。アメリカのベル研究所やIBMの研究機関が縮小されたのを真似したからです。それにより、日立の基礎研究所が事実上の閉鎖となり、NTT、NEC、ソニーなどの中央研究所も縮小されました。
このことに危機感を覚えた著者は、物理学研究の手をいったん休め、イノベーション戦略の研究と政策提言を始めました。そして会社経営を学び、ハイテク・ベンチャーを実際に創業します。そのような活動を通して培った著者の目が、漂流する日本という名の「沈みゆく船」を救うために本書で役立てられています。
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日本は今、21世紀型のイノベーション・モデルを見つけられないまま漂流を続けている。制度を整えたうえで、ちりぢりになって漂っているボートから有能なイノベーターたちを救い出しさえすれば、この「沈みゆく船」を救うことができるはずだ。そのためには、今あるイノベーション・システムの隊列を根本から組み直さなければならない。本書は、日本再生に向けて設計図を描き出す試論である。
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第一章は凋落する日本を象徴する出来事であった、鴻海精密工業によるシャープの買収を詳細に解説したものです。日本経済を牽引してきた電機大手が外国資本の傘下に入るという初めての出来事は、日本の産業界に大きな衝撃を与えました。
1912年に早川徳次によって創業されたシャープは、ベンチャー企業から2兆円余の売上を誇る大企業にまで成長した会社でしたが、日本では珍しい「イノベーション型企業」でした。
量産太陽電池、トランジスタ電卓、液晶電卓、大型カラー液晶のような世界初の先進技術製品や両開きの冷蔵庫ドア、カメラ付き携帯電話などの革新的な製品で一世を風靡しました。
そのようなシャープの組織イノベーションは、新しいアイデアを思いついた社員が社長に提案して、部門横断的にチームを結成する仕組みによって実現されていました。社長直轄で自由にプロジェクトチームが作られるこの方式によって、自由な発想の製品が生みだされてきたわけです。
しかし、そんなシャープが2011年度に大幅赤字に陥り、2016年に買収されてしまいました。世間の論調は、「液晶事業への身の丈に余る設備投資」が原因であるとしていましたが、著者は違うところに原因があると考えていました。
著者の考えたシャープの敗因は、著者が「山登りのワナ」と呼ぶ状況に会社全体がはまってしまったから、というものでした。
「山登りのワナ」とは、ある山に登ってしまったら、他にもっと高い山があることを見なくなり、たとえ見えたとしても、登る行為自体がワナとなって下りられなくなる現象のことです。
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山に登る前には、どの山が高いかわからない。そこである山をめざして、ヒト・モノ・カネという生産要素をそこに集中させる。すると、その集中自体がワナとなり、もっと高い山が見えなくなって、より良い未来をもたらすべき製品への研究も開発もできなくなってしまう――。シャープには、そのような組織現象が現れたのではないか。
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著者はこの「山登りのワナ」がシャープ固有の経営問題ではなく、日本のサイエンス型産業全体が抱える構造的な問題だと考えて、シャープの事例をより深掘りしていきます。
シャープは98年度から2007年度にかけて、売上高を倍増させ、2兆7000億円を達成しました。その翌年、当期純利益がマイナス1258億円となり、初めてのつまずきを経験しました。
「2005年までにテレビをすべて液晶にする」と宣言したシャープは、液晶事業に強力な集中と選択を始めました。2002年に1000億円以上をかけて建設した亀山工場は液晶テレビ「アクオス」の大ヒットで「世界の亀山モデル」ともてはやされました。
この成功体験に勢いづき、4300億円の巨費を投じた堺工場が建設されます。しかしその最中の2008年にリーマン・ショックが起きて液晶パネルの売り上げが止まります。在庫が膨れ上がって大赤字となり、競争力が低下したことで韓国勢にシェアを奪われてしまいました。
亀山工場の大成功の裏には、問題が潜んでいました。液晶にリソースを集中させすぎて、光ピックアップ(CDやDVDのデータを読み取る装置)や半導体レーザーなど、その他の光・電子デバイスの競争力が一気に下がってしまったのです。
光・電子デバイスは稀少性が高くて模倣が困難なため、安定的に利益が稼げる分野でした。本来なら次世代製品を研究・開発し、市場をリードし続ける必要がありました。しかし液晶に集中しすぎたために次のデバイスを研究することができませんでした。こうして2010年以降、シャープの研究開発本部からは新しい先進的な部品が生まれなくなりました。
著者はシャープの事例を取材するうちに、企業には2種類の技術者がいることに気づきました。
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ひとつは既知の知識世界の中で、その知識の量を競い合うタイプの技術者である。彼らは技術の極限をめざしているものの、未知の知識には興味を持たないし、むしろそれに関わることを忌み嫌う。(中略)生産部門の技術者は、ほとんどこのタイプである。このタイプを「既知派」と呼ぼう。
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もうひとつは、既知の知識世界で競い合うことに意味を見出さず、未知の世界をいつも探索するタイプの技術者である。彼らはいつも登山への疑念を抱き、他にもっと高い山があるのではないかと、未知の山ばかりを探す。研究開発本部の科学者・技術者は多くこのタイプだ。このタイプを「未知派」と呼ぼう。
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2つのタイプの技術者は、どちらも企業にとって必要だと著者はいいます。しかし、「選択と集中」がなされると、「既知派」が会社の空気を支配し始めます。その結果として、「山登りのワナ」が生まれるわけです。
著者はこの流れを、事務系社員の側からも眺めてみました。
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設備投資を回収するためには、とにかく製造し続けなければいけない。それを止めた瞬間に、数千億円レベルで在庫の減損が出る。生産活動自体は販売よりも利益が出るので、工場を稼働させるために、とにかく作り続ける。販売の力が弱いために売り切れずに在庫が溜まり、あとで減損しなければいけなくなり、損益計算書にドンと現れる。そうなることはあらかじめわかっているにもかかわらず、やめられない。そのジレンマは相当なものだという。
(中略)
財務体質が悪化すれば、企業体力も弱体化していくので、先行投資を削らざるを得ない。そうすると、ネガティヴなスパイラルに入っていく。(中略)液晶の生産現場は、財務系部門とは「文化」が異なり、とにかく作って工場の稼働率を上げることが「善」となる。
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財務系幹部が「在庫リスクが高くなる」といくら具申しても生産現場は耳を傾けません。その結果、生産し続けて在庫の山を築き、巨額の赤字が出てしまったわけです。その財務系幹部は、リーマン・ショック以前から財務の危機が来ることを予想して警告を発していたそうです。
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たとえイノベーション型の企業でも「山登りのワナ」から逃れることは難しい。そして未知の知識に無関心なうえプライドも高い「既知派」の生産技術者が企業の意思決定システムを担っているとき、そのワナから逃れることはほぼ不可能になる。こうなると、そのワナから脱するためには唯一、外圧に頼るほかはない。
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著者はインタビューした財務系幹部に「鴻海の傘下に入ったのはシャープ再生にとってはむしろ大変良かったことにならないか。これからシャープは未来技術の研究と開発に集中することができ、液晶の生産は鴻海に任せられるではないか」と尋ねてところ、「その通りなんです」という答えを得ています。
この章のまとめはこうです。
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これまでずっと会社の経営や制度を支えてきた企業文化と世界観(これをパラダイムと呼ぼう)がじつは間違っていたということが明らかになったとき、初めて組織は「山登りのワナ」から解き放たれて自由になるということ、さらにこれによって「創造の場を失っていた」人々が息を吹き返して、企業はパラダイムを破壊する勇気を獲得するということである。
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外資に買収されて、一見敗北したかのように見えたシャープですが、その実は真のグローバル企業に成長するためのカギを手に入れたのかもしれないと著者は見ています。
第一章だけで紹介する文字量を使い切ってしまいましたが、この後には日米のイノベーション環境の違いや、日本型企業の陥りやすい問題点とそこから脱却するヒントが続きます。興味のある方は、ぜひ続きを本書でお確かめください。