日本には、読めない地名がやたらと多いと思いませんか?
たとえば、「放出」「特牛」「及位」「安心院」「宍粟」。――さて、いくつ読めましたか?
正解は「はなてん」「こっとい」「のぞき」「あじむ」「しそう」です。
こういう難読地名を集めた本やクイズは昔から人気があります。「こんなの読めるわけがない」と笑って楽しむわけなのですが、考えてみるとこれは不思議な話です。
文字とは、本来、そこに何が書いてあるのかを人に伝えるためのもののはずです。それなのに、地元の人には当たり前に読める地名が、よそから来た人にはまったく読めないことがあります。
なぜ日本には、こんな地名がたくさんあるのでしょう。
理由のひとつは、「地名と漢字のどちらが先か」という問題にあります。
私たちは「漢字で書かれた地名があって、それをこう読む」と考えがちですが、実際には逆の場合が少なくありません。先にその土地を呼ぶ「音」があり、後から漢字が当てられた場合です。
日本に漢字が入ってくる以前から、人々は山や川や集落に名前をつけて暮らしていました。当然、その名前はまず「音」として存在していました。そこへ漢字が入ってきて、土地の名前も漢字で表記されるようになりました。
音に近い漢字を当てたものもあれば、土地の意味や由来を考えて漢字を当てたものもあります。長い年月の間には発音が変わったり、昔の言葉が地名だけに残ったりもしました。北海道を中心に、アイヌ語由来の地名に漢字を当てた例もたくさんあります。
だから、漢字の一般的な読み方をいくら知っていても読めない地名が生まれるわけです。
難読地名は、誰かが後世の人を困らせようとして作ったわけではありません。むしろ、その土地がたどってきた歴史の痕跡であると言えます。
しかし、地名の漢字が読めなければ不便です。
そこで役に立つのが、日本語が発達させてきた便利な仕組みです。「ふりがな」です。
日常的にあまりにも当たり前に使っているので、私たちはふりがなを特別なものだとは思いません。小学校の教科書で漢字の横や上についているもの、あるいは難しい漢字の読み方を教えてくれるもの、というくらいに認識しています。
しかし、改めて考えてみると、これはなかなか優れた仕組みです。
漢字には「意味を伝える」という大きな力がありますが、漢字を見ただけでは読み方がわからない場合があります。
でも、「だったら全部ひらがなで書けばいい」とは日本人は考えませんでした。
漢字は残す。その代わり、その漢字の横や上に小さな仮名を添えて、読み方を示す。
つまり、「何を意味するか」は漢字で伝え、「何と読むか」はふりがなで伝える。
一つの言葉に二種類の情報を重ねて表示するわけです。
世界にも、文字の読み方を補助する仕組みはあります。
中国では漢字の発音をアルファベットで示す「拼音(ピンイン)」が使われていますし、台湾では「注音符号」という発音を示す文字が使われています。英語などにも、辞書を引けば発音記号が載っています。
しかし、日本のふりがなのように、もとの文字をそのまま残し、そのすぐそばに別の小さな文字で読みを添える仕組みが、出版物から日常生活までこれほど広く使われている例は珍しいといえます。
日本語は漢字、ひらがな、カタカナという性格の違う文字を同時に使う、かなり複雑な言語です。その複雑さを弱点にするのではなく、逆に利用してしまったのが、「ふりがな」という知恵といえるでしょう。
面白いことに、この仕組みはインターネットの時代になっても生きています。
ウェブページを記述するHTMLにも「ruby」という要素があり、漢字などの文字に読み方を添えて表示することができます。
「ルビ」はもともと印刷・出版の世界で使われてきた言葉ですが、いまではウェブの世界でも使われています。
つまり、「ふりがな」は昔の本のためだけの仕組みではないのです。
さて、前置きが長くなりましたが、今回ご紹介するのは、その「ふりがな」を日本地図に徹底して使った本です。
日本を代表する百科事典出版社のひとつ、平凡社が刊行した『ふりがな日本地図』がそれです。
名前の通り、日本全国の地名にふりがなを付けた地図帳なのですが、この本は難読地名だけにふりがなを振ったのではなく、表紙から奥付まで、全ページの漢字に徹底してふりがなが付けられています。
地図帳なのだから、もちろん場所を調べるために使えます。しかし、この本を眺めていると、それだけではない楽しみ方があることに気づきます。
「へえ、この町はこう読むのか」「この地名は聞いたことがあるけれど、ここにあったのか」「同じ漢字なのに、こちらでは読み方が違う」「どうしてこんな読み方になったのだろう」
この本を開いていると、そんなことが次々と気になってきます。
地名は単なる住所ではありません。
山があり、川があり、海があり、そこで人が暮らし、村ができ、町になり、長い時間をかけて現在の地名になりました。
そう考えると、地名は「土地に刻まれた言葉の化石」のようなものだとも思えます。
ところで、なぜこの本を「おちゃのこ通信」の読者におすすめするのでしょう。
ここまで読んで、「面白そうな本だけれど、ネットショップの経営と何の関係があるのだろう」と思った人もいるかもしれません。
しかし、私は大いに関係があると思っています。
実店舗には「商圏」があります。近所の人が中心のお店なら数キロ程度かもしれませんし、珍しい商品を扱っていれば、何十キロも離れたところからお客さんがやってくるかもしれません。
しかし、ネットショップは違います。
店を開いたその日から、日本全国が商圏になります。
北海道の人も沖縄の人も、東京の人も山間の小さな町に暮らす人も、同じ画面を見て商品を注文することができます。
考えてみれば、これはすごいことです。
ほんの30年ほど前まで、小さな商店が日本全国を相手に商売をするなど、簡単にできることではありませんでした。全国紙に広告を出す、通販カタログを大量に配る、といった大きな費用のかかる手段が必要でした。
それが今では、パソコン1台で日本全国に店を開くことができます。
だからこそ、ネットショップのオーナーには、ときどき日本地図を眺めてもらいたいのです。
ネットショップを運営していると、毎日いろいろな住所を目にするでしょう。
東京都○○区。北海道○○市。長野県○○郡。鹿児島県○○町……。
業務として処理していれば、それらは「配送先住所」というデータでしかありません。
郵便番号を確認し、送り状を発行して、商品を発送する。それで仕事は完了します。
しかし、ちょっとだけ手を止めて、「このお客さんは、どんなところに住んでいるのだろう」と考えてみてはどうでしょう。
知らない町から注文が入ったら、『ふりがな日本地図』を開いて確認してみる。
「ああ、ここなのか」と場所を確かめる。
海沿いの町かもしれませんし、山に囲まれた町かもしれません。大都市のすぐ隣なのに、田畑が広がっているところかもしれません。
そうすると、それまでパソコンの画面に表示されていた住所が、少し違って見えてくるでしょう。
そこには町があり、道があり、家があり、人が暮らしています。
そして、その人があなたの店を見つけ、商品を選び、お金を払って注文してくれたのです。
ネットショップという商売では、お客さんの顔が見えません。
だからこそ、想像力が必要なのだと思います。
「顧客データ」の向こう側に、一人の人間がいる。「配送先住所」の向こう側に、その人が暮らしている土地がある。
そのことを忘れないためにも、地図は案外役に立つのではないでしょうか。
『ふりがな日本地図』は、難読地名の読み方を調べるだけの本ではありません。
もちろん、「この住所は何と読むのだろう」と困ったときにはとても便利です。
しかし、ネットショップのオーナーには、それとは少し違う使い方をおすすめしたいと思います。
仕事場の手の届くところに置いて、お客さんから注文が入ったら、開いて住所を確認する。読めない地名だったら読みを覚える。その住所の周囲を眺めてみる。
そんなことを繰り返しているうちに、「注文してくれたお客さんの住所をきちんと読める」ショップオーナーになっていくでしょう。
そのことがすぐに売り上げ倍増につながるわけではありません。
でも、自分のお客さんが住んでいる町の名前すら読めないショップオーナーと、その町がどこにあり、何と読むのかを知っているショップオーナーとでは、少し違うと思うのです。
さらに本書には、地図研究家の今尾恵介氏が監修した、難読地名のリストや土地にちなんだコラムが掲載されています。
今尾氏は、子どものころから地形図に親しみ、長年にわたって地図や地名、鉄道、行政区画などを研究してきた人です。
面白いのは、単に「地図に詳しい人」ではないことです。
地図に記された地名や駅名、地図記号などから、その土地の歴史や日本社会の変化を読み解いていきます。
著書の『地図バカ――地図好きの地図好きによる地図好きのための本』では、古地図や地形図だけでなく、アイヌ語地名、駅名・バス停名、災害と地図、さらにはGoogleマップまで取り上げています。
つまり今尾氏は、「地図を見る人」というより、「地図を入口に世の中を見る人」と言ったほうがいいのかもしれません。
そんな今尾氏のコラムを案内役として本書を「読む地図帳」として開いてみると、ふだん距離を感じにくいネットショップという商売にも、新たな視点が生まれるのではないでしょうか。
この地図は、全国を相手に商売する人にとって、「自分の商圏を描いた地図」でもあります。
しかも、今日注文してくれた人が日本のどこに住んでいるのかを確認でき、その地名を正確に読むことができる地図です。
ぜひ、仕事場の手の届くところに置いてみてください。